技を継ぎ、
風を起こす

来民渋団扇 職人 栗川亮一「職人ストーリー」

往還道の町

 熊本市から北へ約30km。福岡、大分両県と接し、歴史ある温泉や「灯籠まつり」で知られる熊本県山鹿市。阿蘇外輪山の西麓から流れ出す菊池川沿いに肥沃な平野が広がり、弥生時代には吉野ヶ里に匹敵するといわれる大規模集落(方保田東原遺跡)が営まれていた。チブサン、オブサンに代表される装飾古墳群や、『続日本紀』にも見える鞠智城跡などからも、古くからこの地に豊かな文化が花開いていたことがわかる。江戸時代には、菊池川を利用した水運と豊前街道の陸運が交差する要地となり、北肥後の商業都市として大いに栄えた。
 熊本県の伝統工芸品にも指定されている「来民の渋団扇」を産する来民は、山鹿の中心部から約4km東に位置し、その歴史は、「黒土町」と呼ばれてささやかな市が立っていた室町時代の文明年間(1469〜1487)まで遡る。
 来民が転機を迎えるのは、「肥後の国衆一揆」などの戦乱戦火を経て迎えた、江戸時代の初めのことだった。
 寛永16年(1639)、鷹狩りでこの地を訪れた肥後藩初代藩主・細川忠利が、町としての体裁を残していたこの地に「新町」の名を授け、月に六度、市を立てることを許したのである。
 「新町」は、湯町(現在の山鹿)と隈府(菊池市)を結ぶ菊池往還道の中ほどという地の利と、諸公役などを免除される優遇を得て、商業の町として急速に発展する。宝歴13年(1763)の「宝歴新町絵図」によれば、約三百間(約570m)の大通りをはさんで、157軒の町屋が建ち並んでいた。「山鹿ん新町」の名で親しまれた町勢は、湯町や隈府をしのぐほどだった。
 230余年続いた「新町」の名前が「来民町」となるのは、明治9年(1876)、上御宇田村との合併による。この後、昭和30年(1955)に、稲田村・中富村との合併によって「鹿本町来民」となり、さらに、平成17年(2005)、山鹿市・鹿央町・鹿北町・菊鹿町と合併して「山鹿市鹿本町来民」となった。
 この間、町の賑わいの中心は、一貫して菊池往還の街道筋にあった。来民の町並みの中には安政年間(江戸時代後期)の建物もあり、往時の面影を伝えている。

栗川商店。明治22年(1889)の創業以来、伝統の団扇づくりを守ってきた。

旅の僧が伝えた製法

 来民の団扇の製法を現代に継ぐ栗川商店も、この街道筋に店を構える。
 京都、四国の丸亀とともに日本三大産地の一つとしてその名を知られる来民の団扇は、慶長5年(1600)頃、丸亀の旅の僧が一宿の礼に作り方を伝授したのが始まりとされる。
 ちなみに、室町時代頃までの絵巻や肖像画に描かれた僧はしばしば手に団扇を持っている。公家や役人・武士は扇を持つようになったが、僧は団扇を手にすることが多かった。いまでも、東南アジアでは仏教行事の際、僧は団扇を持つ。来民に団扇の製法を伝えたという僧も、旅の伴に団扇を持ち歩いていて、「作り方は?」と尋ねる家の主に、「竹を割って、広げて編み・・・」と答えたのでは。そんな想像も広がる話である。

竹と和紙の地

昭和初期の栗川商店。こちら向きに立っているのが、栗川商店の初代・正太郎さん。『熊本県産業写真帖』(昭和6年発行)より。

 それはともかく、来民で団扇づくりが盛んになったのは、材料となる竹と和紙に恵まれていたことが大きい。阿蘇の外輪山には真竹が豊富で、それはいまに続く。菊池川流域には以前から楮が多く、加藤清正が文禄・慶長の役の際に朝鮮半島から連れ帰った技術者が伝えた製法により、上質の和紙が漉かれていた。
 参勤交代で江戸詰めとなり、団扇の製法を覚えて帰藩した肥後藩の家臣がこれに着目、寛永19年(1642)、細川忠利が製作者を招いて団扇づくりを観覧し、新町の地場産業として奨励したことが、産地として発展する端緒となった。
 来民が習った丸亀団扇の製法は、大分の中津辺りから伝わったという説もある。中津に注ぐ山国川の上流にあたる耶馬渓一帯は昔から竹の名産地であり、忠利の父・忠興が治めていた。加藤氏の改易に伴って、筑前小倉から肥後に入部した忠利が団扇づくりに並々ならぬ興味を示した背景には、時代に翻弄された細川氏の歴史も絡んでいるのかもしれない。
 忠利の奨励から150年後の寛政4年(1792)、肥後を旅した勤王思想家・高山彦九郎は、「・・・新町とて四、五百軒の町家しぶ団扇を多く作るを業とする・・・」と日記に書いている。
 さらに下った文政・天保年間(1818〜1844)には販路も拡大、名産品として広く知られ、商家の宣伝や夏の進物用として用いられた。渋引きならではの丈夫さが身上の来民の渋団扇は、竈や七輪の火を熾すのに最適で、この頃には一年を通して庶民の暮らしに欠かせないものになっていた。

絵入りの「小丸」団扇。扇面には時代の人気キャラクターが描かれてきた。

来民中興の祖・岩佐正武

 近代の画期をもたらしたのは、明治26年(1893)に来民の第二代町長となった岩佐正武である。
 大正4年(1915)一月に没するまで町長を務め、「来民中興の祖」と呼ばれた岩佐は、先進生産地の視察や工業徒弟学校・模範職工養成所の設立などに奔走し、団扇生産者の企業化を積極的に進めた。岩佐の尽力によって、来民の団扇づくりは町の基幹産業として確立し、大正末から昭和初期の最盛期へと向かうのである。

栗川商店創業

 来民の地で唯一、江戸以来の渋団扇づくりを守る栗川商店が創業したのは、明治22年(1889)のことだった。
 初代は正太郎。それを継いだ一良は、大正元年(1912)から12年(1923)まで、アメリカのシアトルに住んだハイカラ人だった。
 大正期、来民団扇の販路は九州一円はもとより、中国、韓国、台湾から遠くアメリカのハワイまで及び、空前の活気を呈していた。『鹿本町史』によれば、その頃の団扇製造業者は50から60軒、骨の製作者は130軒、家内工業として団扇づくりに従事した人は1200人を数えた。海外に活躍の場を求めた人物が現れても不思議ではない。
 来民での団扇生産のピークは昭和10年(1935)。製造業者35軒、骨製作者200軒、家内工業者1000人で、年間生産数600万本を記録している。
 来民の団扇は〝千客万来〟に通じるとして、とくに商家に喜ばれた。栗川商店も、一年で350万本つくった年があるという。衰退の兆しが見え始めた昭和30年代でも20人近い従業員がいて、早朝から夜中まで団扇づくりに明け暮れた。

団扇づくりが盛んだった頃、天日干しは初夏の風物詩だった。左端が栗川亮一さんの母・仁代さん。
昭和12年(1937)頃の栗川商店。
昭和の初めの栗川商店。大勢の職人が団扇づくりに勤しんだ。『熊本県産業写真貼』より。

衰退の危機に伝統の技を守る

 しかし、団扇生産の最盛期は短かった。扇風機や家庭用のクーラーが登場し、安価なプラスチック製の団扇が出回り始めた昭和40年(1965)頃から、来民の渋団扇は凋落の一途をたどる。
 昭和32年(1957)12軒、186万本、昭和35年(1960)5軒、87万本、昭和45年(1970)2軒、10万5000本… 需要が激減する中、近在まで合わせると1500人以上もの内職者を抱えていた団扇業者の大半は、丸亀からの移入販売に転じるか、廃業を余儀なくされる。昭和51年(1976)に編まれた『鹿本町史』は、「三三〇余年の歴史と全国第二位の生産高を誇った、名産『来民団扇』は、昭和四〇年代をもって、命脈を絶ったといって差支えない」とし、続けて「ただ一部の趣味・同好者の要望による在来の渋団扇の製作に一部の旧生産者が時たま応じている程度で伝統と歴史の命脈を辛うじて保つている」と記す。その「伝統と歴史の命脈を辛うじて保った」生産者が、栗川商店の三代目・正一氏だった。

栗川商店の三代目、父・正一さん。

柿渋を引く母・仁代さん。

四代目襲名

昭和30〜40年頃の団扇を飾ったのは、当時の人気女優たちだった。
団扇づくりが最盛期だった頃、来民のいたる所でこんな風景が見られた。
栗川商店に残る印刷用の版木。手の込んだものは7〜8枚の版木が使われた。

 栗川亮一さんが幼かった頃、団扇の大半はすでにプラスチック柄に洋紙張りのものだった。その団扇づくりも、たまに中元用の仕事があるだけ・・・。 そんな状況の中で、父は息子が大学を卒業するまで、商売にはならない渋団扇の技を守ってくれたのである。
 しかし、栗川さんにとっては、小さい頃から見慣れた仕事である。面白くない、将来が見えない、第一、仕事がない。「正直に言えば、継ぎたくなかった」家業だったが、31歳で店を継ぎ、四代目として団扇や来民の歴史を知る中で、渋団扇の素晴らしさ、400年もの間、絶えることなく受け継がれてきた手仕事の価値を発見していく。
 量産するだけでいいのか。捨てても惜しくない物をつくって満足できるか。思いを巡らすうちに、店にあった古い団扇が目に留まる。昭和4年(1929)製。竹骨のしなやかさはそのままに、渋がこっくりと深みを増し、何とも言えない風情が加わったその団扇には、物を大切に使うための知恵と工夫が詰まっていた。

伝統にオリジナリティを加えて

 何としても守り継ぐーー 思いを定めてからは必死にアイデアを練った。「必需品ではなくなった団扇を、どうしたら使ってもらえるか。生き残るには、付加価値をつけるしかないと思った」と栗川さんは振り返る。
 全国でも来民にしか残っていなかった渋団扇は、稀少さと素朴な趣が相まって、記念品や贈答品としての注文が増えつつあった。
 手始めに、団扇の魅力に触れてもらおうと、県内の書家や画家に文字や絵を描いてもらい、昭和63年(1988)、県の伝統工芸館で書画展を開いた。それまでの団扇業界にはなかった斬新な催しは、以来、毎年恒例となり、回を重ねている。
 贈り物にふさわしい仕立てにと、洒落た畳紙と手提げ袋も創った。一本から注文に応じる一方、中村汀女さんら熊本にゆかりの俳人・歌人の自筆シリーズ、バッグに入る小ぶりのものなど、多彩な商品を揃えていった。渋団扇の丈夫さにあやかって、子どもや孫の誕生記念に名前を入れて贈る「命名団扇」が十年かけて人気商品に育ったように、来民の渋団扇はじわじわと新しいファン層を開拓していった。
 還暦や古希などの長寿の祝いや、結婚、退職などの人生の節目の記念に、あるいは、学校や趣味のサークルで揃いの団扇を使うといった具合に、ここ数年、渋団扇の用途はいっそうの広がりを見せている。
 「『物から心』と言いますが、ようやくそんな時代になったのではないでしょうか。自分が納得したものは、お金を出しても買う時代になって、来民の渋団扇は生き返ったのです」と語る栗川さん。その視線は、海の向こうにも伸びる。
 日本の伝統柄を大胆に取り入れた「花札シリーズ」は、イタリアのファッションショーで小道具として使われ、喝采を浴びた。日本が冬なら南半球は夏と、二千本の団扇を持って乗り込んだシドニー(オーストラリア)の「日本まつり」では、名前に漢字を当て、筆文字で書く団扇を求めて長い行列ができたという。世界が注目するCOOL JAPANの風は、来民の団扇に新しい翼を与えようとしている。

人気女優が印刷された団扇を背に。右端は母・仁代さん。
出来上がった団扇を梱包する父・正一さん。荷物は馬車に積み、鹿本鉄道(大正6年から昭和40年まで植木駅と山鹿駅間20.3kmを結んでいた)の来民駅から送り出していた。
小学校2、3年頃の栗川さん。手に持っているのは来民の団扇で最も大きい「阿呆団扇」。商売繁盛の縁起物や宣伝用として使われる。
団扇の絵柄は、時どきの世情を映してきた。写真は昭和10年代のもの。

やんちゃ息子を支えた出会いと絆

「伝承塾」の塾生と栗川さん。手にしているのが、色染めしたイ草を一本ずつ編み込んでつくる「イ草団扇」。
注文に応じてさまざまな団扇を製作する。イベント用の特大サイズの団扇もつくる。
大正時代から団扇は身近な広告媒体として利用されてきた。印刷機による「名入れ」作業もする。冬は歳暮用のカレンダーをつくる。

 三人の姉の下の男の子。生まれたときから「四代目」と言われて育った栗川少年は、小学校では神童、中学時代には野球部で徹底的に鍛えられ、柔道を始めた高校では「学校始まって以来のワル」と呼ばれた。大学時代には、沖縄・万座ビーチでの武勇伝も残している。「沖縄タイムズ」が「観光中の学生、地元の者を刺す」と一面トップで報じたこの騒動、「友人をかばって地元の愚連隊と100対1で喧嘩して、刺された」のが真相だった。息子が留置された知らせに、父は「入れておいてください」と答えたという。一年で一番の繁忙期。息子への信頼がさせた返事だった。
 あれから三十年。栗川さんは、本業の傍ら、八千代座の復興や小規模作業所の運営、市の教育委員など、広く「まちづくり」に関わってきた。そのきっかけは「家から一歩外に出ることで、出会いと気付きがあった」と語る山鹿青年会議所時代にあった。
 障がいを持つ人へ山鹿の温泉水を宅配したり、各地を視察する中で、「手助けではなく、自立することが必要」と気付いた栗川さんは、平成12年(2000)、小規模作業所「伝承塾」を立ち上げる。
 脳梗塞の後遺症で右半身にマヒが残った母の仁代さんに、リハビリを兼ねて渋引き作業をまかせたら、手の機能がほぼ回復して元気になった。そんな母の姿に「障がいがある人も訓練してはどうだろうと思った」のだという。
 玉名市から通うメンバーもいる伝承塾では、五人の塾生が団扇の縁に細い和紙を張る「縁取り」作業や、ビーズを使った小物づくりなどに取り組んでいる。小学生のアイデアから作り出された「イ草団扇」は、平成15年(2003)の熊本県の新商品コンテストで金賞を受賞。一般の部で受賞したことがメンバーやスタッフを勇気づけた。
 「人のためにと思っていたことが、やっているうちに自分のためになっていた」と語る栗川さん。不登校児のためのカートスクールの共同設立者は、高校以来の親友である。「やんちゃも相当したけれど、その頃の出会いがあって、いまの自分がある。メンバー一人ひとりの自立が夢です」。作業を見守る姿に、息子を信じ、黙って支えた父の背中が重なる。

昭和63年(1988)以来、毎年開いてきた「書画展」では、書家、画家の作品等、約300点を展示する。平成19年(2007)からは熊本市内の学生を対象としたコンテストも併催。「若々しい発想に刺激を受けることも多い」。

毎年、山鹿市が贈る金婚記念の団扇も、栗川商店製。記念団扇の製作は年々増えている。

復活した和傘「山鹿傘」

 「来民団扇に山鹿傘」ーー かつて、来民の渋団扇とともに鹿本地方の特産品として謳われたのが、山鹿傘である。残念なことに、戦後、つくり手が減り、ここ20年近く生産が途絶えていた。
 栗川さんは、渋団扇と同じ竹と和紙と柿渋を使い、製法もよく似ているこの和傘を何とか復活させたいと願ってきた。その思いに応えたのが、栗川さんが「弟子」と呼ぶ吉田崇さんである。
 福岡で生まれ、大分県の日田で木工職人として働いていた吉田さんと栗川さんの出会いは七年前。共通の知人を介してだった。
 和傘職人をめざすと決めてからは、鳥取、岐阜、石川、大分など、三年をかけて各地の和傘産地を訪ね、職人の元で技術を学び、山鹿に戻って和傘をつくり始めた。
 和傘づくりは普通、分業だが、吉田さんは「自分の責任でひとつのものをつくることを大事にしたい」と、傘の骨を差し込む「ロクロ」の部分を除いて、全工程を一人でこなす。「こんなつくり方ができるのは、全国でも彼だけだと思います」と栗川さんは言う。
 電動の工具を使うのは、竹ひごに穴をあけるくらいという全くの手仕事のため、1カ月に仕上がるのは10本ほど。「まだまだこれからです」と言うが、絵付けを担当する妻・聡子さんとの二人三脚で生み出される、新しい山鹿傘に期待したい。

工房で語り合う栗川さんと吉田さん。
吉田さんは昭和48年(1973)生まれ。手間がかかるため、いまではほとんどつくられなくなった袋張り(二重張り)の日傘も手掛ける。
半透明の和紙と竹骨が美しい山鹿傘。

町の宝とともに歩む

渋団扇、和傘とともに山鹿を代表する伝統工芸品「山鹿灯籠」(製作/中島清氏)。「〝和紙工芸〟をテーマにいつか三人展を開きたい」。
山鹿のシンボル・八千代座。平成22年(2010)12月に100周年を迎えた。公演日以外は見学できる。

 江戸の終りから明治にかけて、山鹿には莫大な富を蓄えた「旦那衆」と呼ばれる人々が登場する。商業、醸造業、水運業、銀行など、さまざまな事業を手掛けた彼らが「山鹿をもっと楽しく」と、資金を出しあって建てたのが「八千代座」だった。
 戦後、テレビの普及につれて足を運ぶ人も減り、朽ち果てようとしていた八千代座を守ろうと、地元の老人会が立ち上がる。その運動を引き継ぎ、八千代座復興の中心となったのが、山鹿青年会議所の若者たちだった。
 「山鹿と八千代座にとって、坂東玉三郎さんと出会ったことが、大きかった」と栗川さんは振り返る。相手は当代随一の女形である。「妥協を許さない人に、本物の舞台を演じてもらいたい」。その一念で山鹿の心がひとつになったとき、いまでは秋の恒例となった「坂東玉三郎八千代座公演」が実現する。平成2年(1990)のことだった。
 国の重要文化財に指定され、平成の大修理によって最盛時の姿を取り戻した八千代座は、山鹿の誇る宝ものになった。八千代座復興の歩みは、山鹿のまちおこしの歴史そのものなのである。

「本物は伝わる」と信じて

 「近ごろは、地元の小中学校で作り方を教える機会が増えてきました」と栗川さん。「一本の渋団扇に込められた昔の人の知恵や工夫、物を大切に使い続けた心を、次の世代に伝えていきたい」と思いを語る。
 話題が「五代目」に及んでも、「娘ばかり四人ですが、いずれ誰かが継いでくれるでしょう」と気負う風もない。「残し、伝えたいと思える物をどうつくるか。それが自分の仕事」という確信があるのだろう。
 世相を映すとも、時代を先取りするともいわれる広告の世界で、かつて「モーレツからビューティフルへ」というコピーが一世を風靡した。私たち日本人は、それを「物から心へ」という言葉に置き換え、四十年という時間をかけて、ようやくいま、理解しつつあるのかもしれない。
 団扇の風はやさしい。肌当たりの柔らかさだけでなく、相手を思い遣る気持ちが添えられた風は、心も和ませてくれる。「やっぱり、来民の団扇がいちばん」と言ってくれる人の声がある限り、これからも、やさしく新しい風を送り続けていく。

栗川商店の歴代の商標。右から、昭和初期、昭和30年以降、平成17年以降。来民の町の変遷が表れている。

栗川亮一(くりかわ・りょういち)略歴

昭和35年(1960) 熊本県鹿本町(現・山鹿市鹿本町)来民に生まれる
昭和57年(1982) 九州東海大学を卒業、有限会社栗川商店に入社する
昭和59年(1984) 社団法人山鹿青年会議所入会
昭和63年(1988) 第1回「渋うちわ書画展」開催
平成2年(1990) 有限会社栗川商店代表取締役となる
平成5年(1993) 熊本県若手工芸家グループ「青匠会」初代会長
平成9年(1997) 社団法人山鹿青年会議所理事長
平成9年(1997) 熊本県伝統工芸協会理事
平成10年(1998) 社団法人日本青年会議所熊本ブロック協議会会長
平成12年(2000) 小規模作業所「伝承塾」設立
社会福祉法人「天恵会」理事
平成13年(2001) 来民小学校PTA会長
平成14年(2002) 不登校スクール「トライオンカート」設立・主宰
鹿本町社会教育委員
平成15年(2003) 鹿本地域合併協議会委員
平成17年(2005) 山鹿市行政改革委員
平成20年(2008) 八千代座審議委員
平成21年(2009) 山鹿市新市庁舎建設委員
山鹿市教育委員
山鹿市手をつなぐ育成会会長
山鹿地区自家用自動車協会会長
県立鹿本高等学校PTA会長
特定非営利活動法人「伝承塾」設立 理事長