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来民渋団扇 職人 栗川亮一「団扇の歴史」

竹と和紙。
ごく身近な
素材から生まれた
円やかなかたち、
そこに柿渋を引いた
先人の知恵…
来民の渋団扇。
物を大切に暮らした
江戸の心を
現代に伝え継ぐ。

古代から現代へ

 夏の午後。ゆるやかな団扇の風に守られて昼寝をした記憶を持つ人は、どれくらいいるだろう。部屋ごとにエアコンが据えられたいま、浴衣に風鈴、手に団扇… は夏の風物詩になってしまったが、団扇の風情には代え難いものがある。来民の渋団扇を見る前に、団扇がたどってきた歩みを振り返ってみよう。

団扇の源流

 「団扇」を辞書で引くと、「涼をとったり、火勢を強めたりするための風をおこす道具。ふつう、竹を、柄の部分を残して細かく割って広げ、紙や絹を張る」とある(講談社『日本語大辞典』)。また、「団扇」は当て字で、「団」は丸い様子や円形を示し、「扇」は戸や羽のような平らな面が動いて扇ぐことをいう。
 現代では企業や地域のイベントの宣伝ツールとして広く使われる団扇だが、その歴史は遥か紀元前3150年頃の古代エジプトまで遡る。当時の線刻画に描かれているもので、王が自らの権威を示す小道具として従者に捧げ持たせている。中国では紀元前三世紀以前の周の時代からあったといわれ、その用途は古代エジプトと同じく、支配者の威儀を誇示するための道具だった。これらは「翳(さしば)」と呼ばれ、現在の団扇より大型で柄が長く、扇部には鳥毛や薄絹などが用いられた。また、扇ぐためというより、翳して貴人(とくに女性)の顔を隠す小道具や、邪気や悪霊を払う祭祀具として使われることが多かったといわれる。

日本の団扇

 中国から伝わった団扇が、いつ頃から日本で使われたかは、はっきりしていない。描かれたものとして知られているのは、奈良県明日香村の高松塚古墳(七世紀末)の壁画にある団扇だろう。たおやかな侍女たちが手にする団扇は、柄の長い小型の翳で、扇部は絹の布が張られているように薄い。
 「うちわ」の語源は、翳を用いてハエや蚊などの害虫を打ち払うことを意味する「打つ翳」が、「うちは」→「うちわ」と変化したという説が一般的である(『和漢三才図会』『和訓栞』など)。小型の翳が大型のものと区別されて「団扇」と呼ばれるようになるのは十世紀頃からで、平安時代中期の承平年間(931〜938)に編纂された日本初の辞書『和名類聚抄』にも、「翳」「扇」「蒲葵扇」などとともに「団扇」の語が見える。
 余談だが、同じように扇いで風を起こすものに「扇(扇子)」がある。折り畳み式の団扇ともいえるこの便利な道具は、文字を書き記す木簡を束ねたものをルーツに、平安時代初期に日本で生まれたものである。これが禅僧によって中国に伝えられ、大航海時代にはシルクロードを経てヨーロッパに渡り、独自の発展を遂げた。

多様化する団扇

美人画の絵柄が入った復古調の団扇

 権力者の道具として生まれた団扇は、中世に入っても公家や役人、僧侶たちの間で威儀を表すために使われた。伴の者に持たせる大きな団扇や文様を描いた豪華なものが作られ、絹を張ったり、鳥の羽を用いたり、芭蕉や蒲葵などの植物の葉を利用したりと、素材的にも多様な団扇が登場する。また、庶民の間では、植物の繊維を網代に編んだ方扇が広く使われた。この頃に成立した『信貴山縁起絵巻』『鳥獣戯画』などには、方扇、翳(さしは)、大型の団扇など、様々な団扇が描かれている。

「骨」のある団扇の登場

 時代が下るにつれ、団扇の形はさらに変化していく。なかでも大きく変わったのが、室町時代末から戦国時代にかけてである。
 古代以来、柄も兼ねる一本の棒に扇部を固定していた団扇の構造を一大転換させたのが、「骨」だった。竹を用い、先を細かく割って広げることで扇部から枠がなくなり、そこに紙を張ることで、団扇はそれまでのものにはなかった、しなやかさと軽さを獲得する。私たちが日頃何気なく使っている団扇は、この時代に生まれたといえるだろう。
 合戦が相次いだこの時代、団扇は別の変化も見せる。「軍配団扇」と呼ばれるものだ。「軍配」とは、戦に勝つために日時や方角を占って軍を差配することを意味する。戦国時代以降、武将は手に軍配団扇を持って陣頭指揮を執るようになる。その種類は、網代団扇に漆を塗ったものや、木製のもの、鉄の薄板を使ったものなどさまざまで、金蒔絵で家紋をあしらった豪奢なものも残っている。今日、大相撲の行事が持つ軍配は、この時代の軍配団扇の流れを汲むものである。

団扇の大流行

 徳川幕府による泰平の世が続いた江戸時代、団扇は庶民に広く普及した。炊事はもちろん、納涼や祭り、盆踊りから、虫遣り、蛍狩り、さらには、延焼を防ぐために火の粉を払う町火消しの大団扇まで、庶民の暮らしに欠かせない道具になる。
 木版印刷が発達すると、絵入りの団扇が大量に作られ、その時々の好みを取り入れた絵柄や形が流行を生み、装いの小道具としてもてはやされた。扇面に絵師が腕をふるったり、俳諧や和歌、漢詩などが書かれたり… 団扇は美や文化を表現するメディア、暮らしの中で楽しむ道具として大いに発達するのである。また、団扇の大衆化とともに各地に団扇産地が誕生し、名産品として人気を博すようになるのもこの時期である。

江戸時代中頃の団扇屋の様子。(「日本山海名物図会」より)

受け継がれる団扇の霊力

 「扇ぐ」「払う」機能をもつ団扇は、古代から災いを払う呪力があると信じられてきた。江戸時代には、縁起物として団扇を売る神社仏閣も現れ、人々は競って買い求めた。なかには、田畑の害虫駆除や夏の病除けによいといわれる大國魂神社(東京都府中市)の「烏団扇」や、魔除けのお守りとして人気の唐招提寺(奈良市)の「宝扇」、鞍馬寺(京都市)の「降魔扇」など、現代まで伝わるものもあり、団扇が日常の道具とは別の意味も持ち続けてきたことを窺わせる。

美しい輸出品

 明治に入ると、団扇は新しい展開を見せる。まずは、浮世絵や錦絵の手法が駆使された美しい絵柄が珍重され、膨大な数の団扇が欧米や中国に向けて輸出された。海外からの需要を得ようと、寄木細工を施した団扇や竹を網代に編んだものなど、各地で工芸品としての趣向を凝らした団扇も作られたが、ブームにのっただけの粗悪品も多かった。

広告媒体としての発展

 次に急増したのが、現代まで続く広告媒体としての需要である。
明治末頃からは裏面に名前を入れた商店用の団扇が全国に広まり、印刷技術の発達とともに表のデザインが多彩になるにつれ、団扇は販売促進用の重要なツールとなっていく。昭和初期から第二次大戦の開戦前後まで、戦意高揚のために団扇が利用されたのも、マスメディアとして大きな力を持っていたからに他ならない。終戦直後の物資不足の時期を経て、昭和20年代半ば、日本経済の復興とともに団扇の生産は急激に回復する。扇面を飾ったのは、当時の銀幕のスターや人気歌手たちだった

贈答品としての伝統

 『続日本紀』宝亀8年(777)5月の条に、「来日した渤海使に朝廷が檳榔扇を贈った」という記述があるように、団扇は古くから夏を代表する贈答品だった。今日、京都の花街で芸妓がなじみ客に届ける名入れ団扇や、企業・商店が夏の挨拶に団扇を配る習わしにも、たどれば永い歴史がある。

現代に生きる団扇

 昭和四十年代、団扇をめぐる環境は一変する。プラスチックの骨を使った安価な団扇の登場である。扇風機やクーラー、火を熾す必要のないガスコンロの普及や、中国への技術移転も、衰退に追い討ちをかけた。
 現在、竹を骨とする伝統的な団扇をつくる地域は、全国に十数カ所。一~数軒の業者が残るだけのところも多いが、和の風趣あふれる団扇の人気は根強く、美術工芸品や贈答品、インテリア向けなど、各々が創意を加えながら、伝統ある産地としての道を歩んでいる。

栗川亮一(くりかわ・りょういち)略歴

昭和35年(1960) 熊本県鹿本町(現・山鹿市鹿本町)来民に生まれる
昭和57年(1982) 九州東海大学を卒業、有限会社栗川商店に入社する
昭和59年(1984) 社団法人山鹿青年会議所入会
昭和63年(1988) 第1回「渋うちわ書画展」開催
平成2年(1990) 有限会社栗川商店代表取締役となる
平成5年(1993) 熊本県若手工芸家グループ「青匠会」初代会長
平成9年(1997) 社団法人山鹿青年会議所理事長
平成9年(1997) 熊本県伝統工芸協会理事
平成10年(1998) 社団法人日本青年会議所熊本ブロック協議会会長
平成12年(2000) 小規模作業所「伝承塾」設立
社会福祉法人「天恵会」理事
平成13年(2001) 来民小学校PTA会長
平成14年(2002) 不登校スクール「トライオンカート」設立・主宰
鹿本町社会教育委員
平成15年(2003) 鹿本地域合併協議会委員
平成17年(2005) 山鹿市行政改革委員
平成20年(2008) 八千代座審議委員
平成21年(2009) 山鹿市新市庁舎建設委員
山鹿市教育委員
山鹿市手をつなぐ育成会会長
山鹿地区自家用自動車協会会長
県立鹿本高等学校PTA会長
特定非営利活動法人「伝承塾」設立 理事長