夫婦で守る
形・色・技

まごじ凧 職人 竹内義博・竹内日出子「職人ストーリー」

飛幡、鳥旗、戸畑

 ほととぎす飛幡の浦にしく浪の
 しばしば君を見むよしもがも
       (巻十二 詠み人知らず)

 『万葉集』に「飛幡」と詠まれて登場する戸畑は、北九州市のほぼ中央に位置する。同じ奈良時代に編まれた『筑前風土記』には「鳥旗」、文化九年(1812)の伊能忠敬の日記には「戸畑村」と記されているように、古くから「とばた」と呼ばれてきた。区の南、緑豊かな金比羅山から流れ出す境川は、文字通り、筑前と豊前の国境だった。
 半農半漁の寒村だった戸畑を一変させたのが、明治三十四年(1901)、隣村の八幡に開業した官営八幡製鉄所である。
 背後に日本有数の筑豊炭田をもつ戸畑は、それ以後、工業地帯として急速に発展する。明治の中頃に3000人ほどだった人口は、五市(小倉・戸畑・八幡・門司・若松)が合併して北九州市が誕生した昭和三十八年(1963)には、約11万人にまで膨らんでいた。いまも区の面積の約半分を新日鉄の工場が占めていることは、戸畑の近代史の象徴ともいえる

戸畑と若松を結ぶ若戸大橋。全長2,068m。大型貨物船の出入りに備え、満潮時でも海面からの高さは40mある。

産土神に見守られ

 昭和37年(1962)の開通時、〝東洋一の吊り橋〟と日本中の注目をあつめた若戸大橋とともに、全国に知られる〝戸畑〟といえば、毎年七月下旬に奉納される「戸畑祗園大山笠」だろう。200年以上の歴史をもち、「博多祗園山笠」「小倉祗園太鼓」とともに「福岡の三大夏祭り」と称される祭りである。
 ハイライトは昼間の幟山笠が、夜になると高さ10メートルもの提灯山笠に変わる競演会だ。いまも変わらずロウソクが使われる提灯をピラミッド状に積み上げ、「ヨイトサ、ヨイトサ」の掛け声とともに大通りを駆け抜ける様は圧巻である。この祭りを主司するのが、飛幡八幡宮である。
 建久五年(1194)、遠賀郡花尾山城主だった上野介重業(後に麻生姓を名乗る)が故郷・宇都宮から八幡神を勧請し、城の鬼門にあたる枝光村宮田山に祀ったのが始まりと伝わる。社殿は天正年間(1573〜1592)に鳥旗に遷り、さらに大正九年(1920)、現在地の浅生に遷座した。創建以来、戸畑の産土神として、地元の人々に崇敬されてきた古社である。
 飛幡八幡宮の記録によれば、享和二年(1802)に戸畑で疫病が蔓延したため、同社の祭神の一柱である須賀大神(須佐之男命)に祈願したところ治まった。このため、翌年から解願行事として山笠がつくられ、奉納が始められたという。祭りの期間中は、普段は静かな社殿周辺にも大勢の人々が詰めかけ、御神幸や山笠の競演に酔いしれる。
 凧に興味を持つ者なら、「飛幡」という名前も気になる。日本で文字として記された最初の凧は『肥前国風土記』中の「幡」といわれる。その「幡」が「飛ぶ」という古名・・・戸畑は凧との深い縁を感じさせる土地である。

中央通りに面して鎮座する飛幡八幡宮。
戸畑祗園大山笠。現在のような形になったのは江戸末期から明治初期といわれる。幟山の汐まき行事など古式を留めており、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

カイトハウス まごじ

 飛幡八幡宮の斜向かい、JR戸畑駅から東にのびる中央通りに面して、「カイトハウス まごじ」はある。
 麻の暖簾に「凧」の一文字。セミの切り絵があしらわれた看板に惹かれて引き戸を開けると、色も鮮やかな大小さまざまの凧が目に飛び込んでくる。
 大きな目が愛らしいセミ凧で知られるが、正確にいえば「まごじ凧」は、この店の主である竹内義博さんと妻の日出子さんが作るすべての凧をいう。
 「まごじ凧」は、明治の終り頃、義博さんの祖父・竹内孫次さんが作り始めた。
 凧の名前は、大雑把にいえば、関西では「いかのぼり」、関東では「たこ」、九州・四国では「はた」「いか」「ばらもん」などと総称されてきた。また、個々の凧は、長崎の「鬼凧」、大社(島根)の「鶴・亀祝凧」、東京の「江戸奴凧」、愛知の「蝶凧」等々、その多くが形や作られる土地の名にちなんでいる。「まごじ凧」のように、作者の名前で呼ばれる凧は全国的にも珍しく、この凧の評判がいかに高かったかを物語っている。

店舗兼工房の「カイトハウス まごじ」。平成元年(1989)、「北九州市建築文化賞」を受賞した。

セミ凧のルーツと分布

「カイトハウス まごじ」の玄関。
「カイトハウス まごじ」の店内。「セミ」「鷽」「孫次どうじん」など、「まごじ凧」を代表する凧が迎えてくれる。

 セミ凧は、戸畑のほかに、豊後高田・豊前長洲(大分)から、高松(香川)、安城(愛知)、大須賀(静岡)、鴻巣(埼玉)辺りまで点在している(堤昭明「日本の凧のいろいろ」)。凧の伝播には江戸時代の参勤交代が大きな役割を果たしたといわれるが、〝海の道〟もあったのでは、と思わせる分布だ。
 また、名古屋のセミ凧は羽根が風袋(風ぬけのための袋)になっているが、九州のセミ凧は風袋を持たない。そのため、各々独自に発達したと考えられてきたが、九州のセミ凧は幕末以前の形を残し、名古屋では明治以降に発展したセミ凧の形を伝えているのではないかという説もある(新坂和男『凧の話』)。
 中国では、漢の時代から、長い時間を地中で過ごし、殻を脱いで羽化するセミに、生命の再生や復活を見ていた。セミを象った玉がしばしば副葬品として用いられたことからも、セミが特別の力をもつ生き物で、その文様はめでたさの象徴だったことがわかる。凧の形としてセミが選ばれたのは、偶然ではないのだろう。

凧王国・北九州

 義博さん所蔵の『九州の凧』というガリ版刷りの冊子がある。発行は昭和五十八年(一九八三)で、この頃すでに途絶えたものも多かった九州各地の凧についても記された貴重な資料だ。
 これによると、昭和十年(一九三五)頃の戸畑では、孫次さんのほかに、村上岩吉、吉次金次郎、矢野矢之助といった凧作りの名人達人が腕を競い、北九州のなかでも「凧王国の観があった」という。
 長い海岸線を持つ北九州は、海から企救半島に連なる山並みに向かって風が吹く。とくに冬の季節風は凧揚げに向き、骨作りに欠かせない竹にも恵まれて、昔から凧作りが盛んだった。
 強い季節風に耐えるよう、形や骨組みに工夫を凝らした凧はよく揚がり、それがまた一層、人々を凧遊びに熱中させた。孫次さんのセミ凧をはじめ、黒崎の「武者絵凧」、門司の「フグ凧」、若松の「河童凧」、雷や龍、鬼の秀逸な絵柄で知られた小倉の「どうじん凧」など、各地でその地ならではのモチーフの凧が作られ、大空を舞っていた。

遊び心から生まれた凧

 竹内孫次さんは明治22年(1889)、戸畑に生まれた。元からの凧職人ではなく、家業だった米屋の傍ら、遊びで作った凧がよく揚がると評判になり、その凧がいつしか名前を冠して呼ばれるようになった。
 その代表がセミ凧である。ヒントになったのは遍路の土産にもらった四国のセミ凧だったという。前述で紹介した凧がそれだが、卵のようにずんぐり丸い胴と抑えた色調は、同じセミ凧とは思えないほど印象が違う。当時の絵付けは孫次さんの妻の君乃さんの仕事で、味のある絵柄はセミ凧に限らず評判だった。

凧作りに勤しむ竹内孫次さんと君乃さん。二人が作る凧は「稚拙の中に飄逸味をもつ武者絵と獣類絵が好評を呼び、海外にまで喝采を受け販路を広げた」(『九州の凧』)。

存続の危機

 四、五歳の頃から凧作りを始め、自他共に認める名人だった孫次さんが昭和45年(1970)に亡くなった後、その技を継いだのが、孫の義博さんである。
 義博さんは孫次さんから特別に凧作りを教わったわけではなかったし、農協職員という仕事も持っていた。祖母の君乃さんが亡くなった後、絵柄を版画にして残してはいたが、一時は存続が危ぶまれたこともあったという。
 昭和も30年頃まで、凧はごく身近な遊び道具だった。駄菓子屋の軒先では、「一文凧(もんぱ)」と呼ばれる子ども向けの安価な凧が揺れていた。そんな凧に飽き足らない子どもたちは、より高く揚がる凧を求めて、自分で凧を作ったものだった。
 「見よう見まねで作っていました。友だち同士で、しっぽは縄にするか紙にするか、形は、うなりは・・・などと言いながら、競争したものです」と語る義博さんにとって、幼いときからそばで見ていた祖父の凧作りの技は、自然に身に付いていたものだったのだろう。
 孫次さんが亡くなって三年後、日出子さんとの結婚を機に、義博さんは本格的に「まごじ凧」作りに取り組むことになる。

昭和41〜42年頃、子どもたちと凧揚げに興じる孫次さん。後ろに見えるのは若戸大橋。

大きなセミ凧を背に立つ孫次さんと君乃さん。

二代目として

 義博さんが見て育った孫次さんの凧作りは、二代目となって40年を過ぎたいまも、変わらず引き継がれている。
 使う道具は鉈と小刀。凧の骨格となる竹ひごは、強度が必要な縦骨には三年物の真竹を、目や羽根など、丸めたりカーブを付けるものには、しなやかな女竹を使う。
 その竹ひごを糸で結び合わせて作る骨組みに貼る紙は、主に八女産の和紙。なかでも一番よく揚がる一枚六匁(約23グラム)のものを使う。しっぽとして付ける藁縄を含めて、材料はすべて、捨てられても土に還るものだ。昔は七夕飾りに使った竹をとっておいて、正月の凧作りに使うのも当たり前のことだったという。
 「自然と遊ぶための道具には、自然の素材、それもできるだけ県内産のものを使いたい」。義博さんのこだわりである。

竹内義博さんと日出子さん。

初めての絵筆

 「サラリーマンと結婚したつもりでした。絵を描いたこともなかった私が、凧の絵付けをすることになるなんてね」と振り返るのは、奥さんの日出子さんだ。
 結婚してすぐ、「これを見て描いて」と義博さんから差し出されたのが、版画にして残されていた祖母・君乃さんの凧の絵柄集だった。昭和48年(1973)、「まごじ凧」作りはこうして、先代同様、夫婦二人三脚の仕事となった。
 下描きをせず、和紙に直接筆をおいて一気に描いていくのも、君乃さんの頃と同じ。変えたのは、泥絵の具だった画材を食紅(食用色素)にしたことだろうか。
 子どもたちが小さかった頃は工房が遊び場で、そこらじゅうに絵の具をつけて回った。舐めても安心な絵の具はないか、と使ってみたのが食紅だった。赤、黄、緑…目に鮮やかで、揚げると光が透けて青空によく映えた。青色だけなかったが、それも数年前に開発されたという。
 引き継いで40年近く、干支の絵柄は君乃さんの頃のままだが、それ以外の絵柄は少しずつ日出子さんのものとなり、新しい趣を加えてきた。愛らしく温かな絵柄は、日出子さんの人柄そのままである。

サラリーマン時代の義博さん。凧作りを専業にしたのは、平成9年(1997)、53歳で仕事を退いてから。

二人で凧作りを始めた頃。結婚するまで絵を描いたことがなかった日出子さんに、義博さんが絵付けを頼み込んだという。

〝幻の凧〟を再び

 「岩吉セミ凧」「小倉どうじん」「河童」・・・「カイトハウス まごじ」では、かつて北九州の各地で作られ、作者の没去とともに消え去った凧に会うことができる。幻になったことを惜しみ、義博さんが復刻したものだ。伝統を守るだけでなく、戸畑の提灯山笠や武蔵と小次郎をモチーフにした凧など、北九州ならではのオリジナル凧の創作にも日出子さんと一緒に取り組んできた。「新しい凧を考えるときは、郷土色をどう出すか苦労します」。そう言いながら、義博さんは楽しそうだ。
 「まごじ凧」は、はがきサイズのものを除けば、種類に関係なく、すべて揚げることができる。飛揚性を備えた上で、そのモチーフにふさわしい形を与える作業は、むずかしいだけに、凧作りの腕の見せ所でもあるのだろう。「高く揚がり、美しい凧」へのこだわりは、脈々と受け継がれている。

凧の楽しさを一人でも多くの人へ

じいちゃんの凧を廃れさせるわけにはいかない」。この想いが義博さんに技の継承を決意させた。

 電線や高い建物が増えたいま、都会には凧を揚げる場所がない。子どもの遊びの主役も、テレビやゲーム機になった。「まごじ凧」も近頃は、インテリアやお祝いに、また、合格や景気上昇を願って買い求める人が多い。時代の流れなのだろうが、義博さんは「揚げてこそ、凧。一人でもたくさんの人に凧揚げの楽しさを伝えたい」と語る。
 北九州市には、優れた技能を持ち、産業振興や市民生活の向上に貢献している人を認定・表彰する「北九州 技の達人」という制度がある。平成十六年(二〇〇四)、義博さんはその第一回の認定者の一人に選ばれた。以来、小・中学校や市民教室などで凧作りを教える機会も増えた。
 凧作り教室で、絵を描き、糸を結び、しっぽをつけながら、子どもたちの顔はどんどん輝き始める。完成した凧を揚げながら「風と綱引きしてるみたい」とはしゃぐ子どもたちのそばで、付き添いだったはずの父親や母親が、いつの間にか夢中になっている。義博さんの「揚げてこそ、凧」の言葉を実感させる光景だ。

凧の生まれ故郷へ

 平成17年(2005)4月、義博さんは中国・山東省の濰坊市にいた。縁あってこの地で開かれる「第一回世界凧揚げ大会」に招かれたのだ。山東半島の付け根に位置する濰坊は、凧の発祥地といわれ、中国最大の凧の産地として国際的に知られる。
 初期の遣唐使船は、朝鮮半島西岸から遼東半島の南を経て山東半島に渡り、長安をめざした。「その昔、ここを通った遣唐使が日本に凧を持ち帰ったのでは」と義博さんは考えてきた。その地で揚げた四点の凧はいま、日中友好の証しとして、世界最大の凧博物館に展示されている。

坊市で開催された「第5回世界凧揚げ大会」の会場で。

夢を乗せて、もっと高く、もっと遠くへ

 請われれば、どこへでも。凧の魅力を伝えるためなら、力の及ぶ限り…自慢の凧を手に、国内はもとより、中国へ、韓国へ。義博さんの活動は、凧の伝道師にも似て広がりつづけている。「『平穏無事』という言葉が好き」という物静かな義博さんのどこに、こんな情熱がひそんでいるのだろう。いつだったか、小学校に招かれた義博さんが、子どもたちを前に語ったのは、「今度、灯りをともした凧を夜空に揚げます」だった。
 「凧には、日本に伝わってからの長い歴史がありますが、揚げなくなったらそこで途絶える。これからは、もっと外に出ていこうと思っています」
 〝凧の魔法〟は生涯解けないのかもしれない。

竹内義博(たけうち・よしひろ)略歴

昭和18年(1943) 北九州市戸畑区に生まれる
昭和37年(1962) 福岡県立戸畑工業高等学校卒業
電源開発株式会社に入社し、若松の発電所に勤務
昭和40年(1965) 北九州市農協に入協
昭和45年(1970) 「まごじ凧」を継承
昭和55年(1980) 福岡県特産工芸品に指定される
平成16年(2004) 日本工芸館主催「民芸公募展」で「NHK会長賞」受賞
「北九州 技の達人」(北九州市産業学術振興局)認定
平成17年(2005) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
平成20年(2008) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
平成21年(2009) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
「グローバルフェア&フェスティバル2009」(韓国・仁川市)出場

竹内日出子(たけうち・ひでこ)略歴

昭和23年(1948) 福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)に生まれる
昭和48年(1973) 竹内義博と結婚。以降、まごじ凧の絵付けを担当。