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まごじ凧 職人 竹内義博・竹内日出子「凧の歴史」

昔、日本の空が美しかった頃
烏賊も蛸も、亀も鬼も
空を飛んでいたらしい。
高く、もっと高く
空に憧れて、いつしかみんな、
その身を凧に預けたらしい。
風の魔法は、いまも解けていない。
凧を引く糸を手にすると
ほら、みんな子どもの顔になる。

空と風の物語

凧の誕生

 ♪もう幾つ寝ると お正月 
  お正月には 凧揚げて
  独楽を回して 遊びましょう…
 奴凧や角凧を持った子どもたちが、稲の切り株が残る田んぼを走り回る情景が失われて久しい。しっぽをひらめかせながら澄み切った冬空を上ったり落ちたりする凧に、男の子も女の子も一喜一憂したものだった。
 奴凧や角凧がビニール製のカイトに変わり、そのカイトもいつしか消えて、日本の冬の空はすっかり淋しくなった。
 果てしなく広がる空は、万能の力をもつ神が住む聖なる場所であり、死後、魂が昇ってゆくと考えられてきた。また、その空を自由に飛ぶことは、永い間、人の見果てぬ夢だった。
 凧を「揚げる人の心を乗せて空の高みをめざすもの」とするなら、おそらく凧は、人類の誕生とともに生まれた。凧がその原初、祭祀や占いに使われたことは、人の空への想いと深くつながっている。鳥や蝶や風に舞う木の葉のように「空を飛ぶもの」に対する憧れや興味は永遠のものであり、洋の東西を問わなかったはずだからだ。今日、凧は中国で誕生したとされるが、それ以前に、木の葉に糸をつけたような原始的な凧がアジアを中心として各地にあったことは、十分考えられる。
 台湾の先住民であるアミ族が作っていたという木の葉の凧や、日本の沖縄・八重山一帯にあったデイゴやタブ、フクギなどの葉を用いた凧、飛騨高山で昭和の初め頃まで揚げられていた朴の葉凧などは、原初の凧の名残りといえるかもしれない。

記された凧

 話を文字で記録された凧に絞れば、文献に現れる世界最古の凧は、紀元前300年頃に書かれた『韓非子』に見える「木鳶」(木製の凧)である。また、同じ時代に思想家・墨子の弟子たちによって編まれた『墨子』には、「公輪子竹木を削りて以て鵲を為り、成りて之を飛ばす。三日下らず」とある。この「鵲」も木製の凧だったと考えられている。
 凧にとっての大革命ともいえるのが、105年頃の「紙の発明」だった。それまで布で作られていた凧は、紙と折り曲げ自在な竹を組み合わせることで大きく発展し、紙が安価になるにつれて貴族から庶民へと広まっていく。
 南北朝時代(420〜589)には子どもたちの玩具として楽しまれていた記録があり、五代の頃(907〜960)には、うなりを付けた凧である「風箏」が登場し(『詢蒭録』)、うなりを付けない凧は「紙鳶」として区別した。これなども、凧が玩具として広まり、愛され工夫された証しといえるだろう。続く北宋時代(960〜1126)には、9月9日に厄除けの祭りとして凧を揚げる風習が定着する。こうして凧は、広く親しまれる遊具となっていった。
 その一方、中国や朝鮮半島では、凧は長く戦争時の道具として利用された歴史を持つ。
 前漢時代(紀元前202〜紀元8)の武将・韓信が城攻め用のトンネルを掘る際、敵城までの距離を測るために凧を利用した話や、文禄・慶長の役(1592〜1598)で活躍した韓国の名将・李舜臣が、信号凧を使って戦略を指示したことなどはよく知られる故事である。信号凧の図柄は「東と南から同時に攻撃せよ」「満月の日に攻撃せよ」「船と船の間を長く縛れ」など三十種近くもあった。

日本の凧

珂是古が掲げた幡が落ちた場所に建てられたと伝わる媛社(ひめこそ)神社。祭神は姫社神と織姫神。通称「七夕神社」と呼ばれている。(福岡県小郡市)

 わが国の文献に凧が最初に登場するのは、和銅6年(713)の『肥前国風土記』である。文中の「姫社郷」の条に、姫社神社の由緒として「山道川の西にいた荒ぶる神を鎮めるために、筑前国宗像郡の珂是古という人が幡を捧げて祈り、幡を擧げ、風にまかせて放った。その幡が落ちた所に社を建てた」という旨の記述がある。
 この「幡」が凧だったかどうかは研究者によって意見が分かれるが、古代の中国や韓国では凧は呪術や祭祀に使われていた。また、凧を高く揚げてから糸を切ると何キロも先まで飛ぶことは、凧遊びをする人ならよく知ることである。長崎ではいまも、凧が「ハタ」と呼ばれることなども考えあわせると、幡は凧だったと想像することはできる。
 また、養老4年(720)に成立した『日本書紀』の第二十六巻には「沙尼具那に鮹幡二十頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を授け・・・」とある。凧は戦国時代まで、狼煙代わりや味方に居所を知らせるための目印に使われていたことから、この「鮹旗」を戦具の凧とする説もあるが、詳しいことはわかっていない。

「紙鳶」の登場

「紙鳶」が日本の文献に登場するのは、仁和四年(888)の『田氏家集』中の漢詩で、春の空に舞う凧の様子が詠われている。さらに、承平年間(931〜938)に編まれた『和名類聚抄』には、「紙で鴟の形につくり、風に乗せてよく飛ばすものを紙老鴟または紙鳶と云う」とある。
 鳶、鴟はいずれもトンビのことで、凧をすべて「風箏」と呼ぶようになった現代でも、中国の凧には鳥、ことに鳶や鷲、鷹など、空中を滑空するように悠然と飛ぶ鳥の形を模したものが非常に多い。鳶は、韓国では「ヨン」と発音し、そのまま「凧」を意味する。「紙鳶」は、凧が日本に伝わった時期とルートを指し示す語ともいえるだろう。
 こうして日本にもたらされた凧は貴重な品で、揚げるのは、独楽師などと同様、専門の技人だったという。凧を自在に操る彼らに、平安貴族たちは喝采したことだろう。

庶民の遊具へ

 安土・桃山時代の終りには、いまに続く凧遊びが各地で始まっている。例えば、長崎や浜松の「凧合戦」は、永禄年間(1558〜1569)以来のものだ。また、『徳川御秘書浜松城記』には、元亀三年(1572)の端午の日に凧揚げをしたことが記されていて、この頃から端午の節句に「祝い凧」を揚げる風習があったことがわかる。そうして江戸の世になると、長く公家や武士のものだった凧が、身分や年齢に関係なく、身近な娯楽として広まっていく。それは、太平の世がもたらした心のゆとりや、文化の担い手が町民に代わったことと無縁ではない。
 大阪で構造の簡単な角凧が流行り、大きさや絵柄の華やかさが競われると、またたく間に江戸に伝わり、凧は大流行する。人々のあまりの熱中ぶりに幕府は度々禁止令を出したが、効果はなく、日本の空から凧が消えることはなかった。
 凧を商う「凧屋」ができ、多色摺りの錦絵が凧に使われ、参勤交代によって江戸と地方の凧が混じりあい、多種多様な凧が創り出されて、文化・文政の頃(1804〜1829)、日本の凧は全盛期を迎えるのである。

近代化とともに

 争乱の幕末から明治へ。維新が呼び起こした文明開化の風に煽られて、凧の世界も大きく変わる。明治も半ばを過ぎると、市街地には電線が張り巡らされ、都会では次第に凧を揚げられる場所がなくなっていく。
 目新しい遊びが次々に登場し、あれほど盛んだった凧揚げは季節の風物詩となり、昭和40年代の半ば以降は、それさえ稀になっていった。外で遊ぶ子どもたちはめっきり少なくなり、日本各地に五百種類以上あったといわれる伝統凧は、遊び手と作り手を失い、幻となったものも数知れない。
 江戸凧と一線を画しつつ、多彩で独特な姿を伝えてきた九州の凧には、明らかに中国・朝鮮半島経由のものとは違う匂いがある。アジアや西洋の凧とどんなふうに交わり、日本各地の凧にどんな影響を与えたのか、なぜ「いかのぼり」とも呼ばれたのか・・・そんな素朴な疑問まで含めて、凧にはまだまだ謎が多い。”幻”にも”遺産”にもなってはいけないのである。

竹内義博(たけうち・よしひろ)略歴

昭和18年(1943) 北九州市戸畑区に生まれる
昭和37年(1962) 福岡県立戸畑工業高等学校卒業
電源開発株式会社に入社し、若松の発電所に勤務
昭和40年(1965) 北九州市農協に入協
昭和45年(1970) 「まごじ凧」を継承
昭和55年(1980) 福岡県特産工芸品に指定される
平成16年(2004) 日本工芸館主催「民芸公募展」で「NHK会長賞」受賞
「北九州 技の達人」(北九州市産業学術振興局)認定
平成17年(2005) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
平成20年(2008) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
平成21年(2009) 「世界凧揚げ大会」(中国・山東省坊市)出場
「グローバルフェア&フェスティバル2009」(韓国・仁川市)出場

竹内日出子(たけうち・ひでこ)略歴

昭和23年(1948) 福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)に生まれる
昭和48年(1973) 竹内義博と結婚。以降、まごじ凧の絵付けを担当。