合わせる。

フランス菓子 職人 三島隆夫「お菓子の日本史」

小麦粉、砂糖、バター・・・
ありふれた素材の
組み合わせから
なんと豊かな味わいが
生まれるのだろう。
手間を惜しまず、丹念に。
職人の矜持を秘めたフランス菓子。
迷いのないその〝味〟に出会うとき、
人はだれも幸せになる。

お菓子の日本史

和菓子、洋菓子、南蛮菓子

和菓子のはじまり

 西洋にサン・ミッシェル(聖ミカエル)という菓子職人の守護聖人がいるように、日本にも「菓祖神」がいる。新羅から渡来した天日槍のひ孫、田道間守命である。
 記紀は、田道間守が垂仁天皇に命じられて常世の国へ行き、不老長寿の妙薬として「非時香果」を持ち帰ったと伝える。非時香果は橘(柑橘)だった。奈良時代に編まれた『続日本紀』にも「橘者果子之最上 人之所好」(みかんは菓子の最上のもの。人々の好むところ)とあり、「果子」を「かし」と訓ませている。
 その記紀の時代よりはるかな昔から、日本列島に住んだ人々は、栗や山桃、椎などの木の実を食用としてきた。また、稲作が伝わった後は餅や飴なども作られたらしいが、お菓子として食されたかは分かっていない。
 奈良時代から平安時代、遣唐使らによってもたらされたのが「唐菓子」である。米などの穀類の粉をゴマや塩などで調味し、油で揚げたり、蒸したりしたもので、宗教儀式などにも用いられた。
 和菓子を大きく変えたのが、鎌倉時代のはじめに中国から伝わった「茶」と「点心」である。喫茶の習慣が広がると点心が茶菓子となり、肉の代わりに小豆餡などを使ったことから、羊羹や饅頭が生まれる。さらに、喫茶法が「茶道」として洗練されていくにつれ、茶菓子にも趣向が求められ、製菓技術は飛躍的に進歩していった。

砂糖との出会い︱南蛮菓子

 茶菓子の発達と同じ時期、西海の彼方から新しい波が押し寄せる。キリスト教の宣教師たちが携えてきた「南蛮菓子」である。カステラ、ボーロ、ビスケット、金平糖、有平糖…いまではすっかり日本の味となったお菓子の伝来は、日本人にとって本格的な砂糖との出会いでもあった。
 砂糖は、紀元前五世紀頃からインドで作られていたが、伝播の立役者となったのは、七世紀から八世紀にかけて地中海周辺を席巻したイスラム教徒だった。かの地に伝わったサトウキビの栽培法や製糖技術を十字軍がヨーロッパに持ち帰ったのは十一世紀のことである。ヨーロッパのお菓子文化はここから本格化する。中国へは七世紀の半ば、唐の太宗の時代に製糖法が伝わったといわれる。
 日本へは天平勝宝六年(754)、唐僧・鑑真とともに「石蜜、蔗糖、蜂蜜、甘蔗」が舶来した。石蜜は氷砂糖のようなもので、いずれも薬用だった。砂糖は以後も長く輸入に頼っており、庶民の手が届くようになったのは、江戸時代も半ばを過ぎてからである。甘味料として広く利用されたのは、甘葛煎(蔦の一種の樹液を煮詰めたもの)や熟した柿など、おもに植物性のものだった。
 「甘い」という字は「うまい」とも訓む。甘味は、それほどに人を惹きつける。宣教師たちはこれを布教に使った。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが織田信長に拝謁した際、ギヤマンの壷に入れた金平糖を贈って歓心を買ったことはよく知られている。甘味には緊張をほどき、痛みを除く作用がある。南蛮菓子の甘さは、乱世に疲れ果てていた民の心も慰めたことだろう。

長崎街道は砂糖街道

 南蛮交易が盛んだった時代、西ヨーロッパのお菓子はマカオなどを経由して平戸へ、次いで商館が移った長崎にもたらされた。
 砂糖、卵、バター…日本人が初めて知ったエキゾチックな味は、鎖国令が発せられるまでの数十年間に広まり、その後、二百数十年の間に、カスティーリャ(発祥地の国名、現・スペイン)はカステラに、コンフェイト(「砂糖菓子」を意味するポルトガル語)は金平糖に、ビスカウト(「二度焼いたもの、又は二番目の窯で焼いたもの」を意味するラテン語)はビスケットになっていった。
 その大動脈となったのが、長崎と小倉を結んだ長崎街道である。五十七里(約230キロ)、25宿。長崎の出島に陸揚げされた砂糖が運ばれた街道沿いは、良質の小麦産地でもあった。カスドース、小城羊羹、金花糖、逸口香、寿賀台、丸ぼうろ、松露饅頭、千鳥饅頭、鶏卵素麺…南蛮由来の多彩な菓子文化は、砂糖と小麦に恵まれた土地だからこそ生まれ、育まれた。「砂糖街道」「菓子街道」と呼ばれる所以である。

南蛮菓子から西洋菓子へ

 そして、幕末から維新の動乱を越えて、西洋菓子が登場する。「和菓子」「洋菓子」という概念は、このとき生まれたものである。いままでのお菓子とのあまりの違いに驚いた人々の顔が、目に浮かぶようだ。南蛮菓子がすっかり日本化していたということでもある。
 日本初の洋菓子専門店の創業は明治7年(1874)。明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会に菓子部門が設けられるなど、国を挙げて製菓産業の振興も図られていく。
 明治20年(1887)前後になると、本場ヨーロッパで修業する菓子職人が出始め、明治の終り頃には、シュークリーム、エクレア、ガトウ・ア・ラ・プラリネ、アマンド・パイ等々、さまざまなお菓子がショー・ケースを飾るようになっていく。
 大正時代の末から昭和の初めにかけて、洋菓子の普及はさらに進む。喫茶店やカフェで洋菓子を提供する動きは、東京・銀座から地方へと広がっていった。
 バターや砂糖の生産の本格化、撹拌機など製菓用機器の開発などによって、工場での量産体制も整っていくが、時代は戦争へと向かう。お菓子は贅沢品に指定され、材料さえままならない月日が続く。世界恐慌から開戦、終戦、統制経済とその撤廃を経て、再び自由にお菓子が作れるようになったのは昭和27年(1952)のことだった。以後、復興や高度経済成長、食の洋風化とともに、洋菓子は日本の食のシーンに欠かせないものとなっていく。クリスマス、バレンタインデー、誕生日のイベント化なども功を奏し、業界は目覚ましい伸びを見せた。

スイーツブームのなかで

 90年代のティラミスを皮切りに、クレーム・ブリュレ、パンナコッタ、ナタ・デ・ココ、カヌレ、ベルギーワッフル、生キャラメルなど、次々とブームが起こる洋菓子の世界。菓子全般が〝スイーツ〟と呼ばれるようになったここ数年は、パティシエに注目が移り、コンフィズリー(糖菓)などパティスリーの専門化も目立つ。何を誇りとし、何を創るのか。ブームというスポットライトを浴びながら、一人ひとりの菓子職人の人間性が試されている時代なのかもしれない。

三嶋隆夫(みしま・たかお)略歴

昭和19年(1944) 4月29日、北海道札幌市に生まれる
昭和21年(1946) 福岡へ
昭和40年(1965) 福岡県立修猷館高等学校を経て、流通経済大学に入学。
ラグビーフットボール部に創設メンバーとして入部する
昭和44年(1969) 帝国ホテル入社。料理飲料部でお菓子部門に配属される
昭和51年(1976) 渡欧。スイス、フランスで修業。パリ16区の「ARTHUR」では
日本人初のシェフを務める
昭和55年(1980) 帰国
昭和56年(1981) 10月24日、福岡市浄水通り近くに「フランス菓子16区」を開店する
平成3年(1991) 現在地に店舗ビルを建設し、移転・オープンする
平成9年(1997) 創業16周年
平成15年(2003) 福岡市より「博多マイスター」に認定される
平成18年(2006) 創業25周年
平成19年(2007) 第5回「市民教育賞」(主催:市民教育賞実行委員会、社団法人福岡県中小企業経営者協会)を受賞
「現代の名工」(厚生労働省)を受章
平成23年(2011) 創業30周年
社団法人福岡県洋菓子協会会長、流通経済大学ラグビーフットボール部OB会会長