彫る

硯司 職人 堀尾信夫「硯の歴史」

硯の祖型

 古来、墨、紙、筆、硯は「文房四宝(ぶんぼうしほう)」といわれて貴ばれてきた。なかでも硯は、もっとも大事なものとされた。墨、紙、筆が使われて消えるものであるのに対し、硯は永くその形を保ち、数百年にもわたって受け継がれていくからである。どっしりとした姿は、まさに“文房の王”にふさわしいといえるだろう。
 愛玩を通り越し、“硯癖家”(けんぺきか)と呼ばれる熱愛者さえいる硯だが、さていつごろ生まれたかとなると、謎が多い。
 現在発見されている遺物のなかで硯の祖型と考えられているのは、「調色器」と呼ばれるものである。絵画などに使う顔料をつくる用具で、石や玉のくぼみに顔料の元となる彩石岩石や石墨(天然の炭素結晶物)を入れ、石棒ですりつぶして使った。殷(いん)代(紀元前1750ごろ〜紀元前1023)や、それ以前の新石器時代から使われていたという。殷代は、その中ごろに、今日の漢字につながる最古の文字=甲骨文が生まれたことでも知られる。亀の甲羅や獣骨に小刀のようなもので刻まれた文字で、凹部には朱色や黒色の顔料がつめられていた。これらも調色器でつくったと考えられている。

筆、紙、墨の発達とともに

採掘後、大割りされた赤間石の原石

 墨を「磨る」ための用具が生まれたのは、戦国時代の末(紀元前220ごろ)から中国初の統一王朝である秦(紀元前221〜紀元前206)にかけてと考えられている。天然の石を素材として用いた石硯がそれで、現在のものとは趣が異なり、表面を平らに加工しただけの、縦横それぞれ10センチ程度の小さなものである。円柱状の磨墨具とセットで出土することから、石墨を砕いて表面に置き、水を加え、磨墨具ですりつぶして使ったと考えられている。当時はまだ固形の墨がなかったため、こうして得た墨汁に漆や膠を混ぜて使っていたらしい。後漢の許慎(きょしん)の「石の滑らかなるものを硯という」という記述を彷彿させる用の具である。
 わずか15年で滅んだ秦に代わって興った漢代(紀元前206〜紀元後220)は、治世の安定とともに文化が興隆し、筆と紙も発達する。この時代の硯の大半は「石硯」や「陶硯」で、その多くは墨汁をためるための「海」がない。磨墨具を用いる硯や、古瓦を使った「瓦硯」も広く使われた。漢代後半には現在のような固形墨が生まれ、硯も磨るための形を整えていく。また、三国時代から隋(220〜618)にかけては、円形有脚の硯や、「風」の字の形をした陶瓷硯(陶土に釉薬をかけて高火度で焼き締めた硯)が登場する。
 隋に続く唐代(618〜907)は、約300年にわたって東西の文化文物が交流した華やかな時代。高等文官への登竜門である「科挙」で重んじられたため、詩作や書法が飛躍的に発展し、人々は争って良硯を求めた。端渓(たんけい)石や歙州(きゅうじゅう)石といった名硯材がこの時代に発見されたのも、偶然ではないだろう。磨墨と発墨に優れ、色や肌理(きめ)、石紋が美しい硯材は、硯に鑑賞性をもたらし、作硯を一変させた。
 唐代末には「海」をもつ硯が現れ、宋代(960〜1279)には、現在のものとほぼ同じ形の硯となる。実用性に芸術性を加えた硯は百種を越える新しい形態を生み出し、洗練を極めた。今日の多様な硯のほとんどは、この宋代に確立した様式を受け継いでいる。

日本の硯

古墳の壁画が示す硯の伝来

 中国で発明された硯の日本への伝来は、漢字や書物の伝来と切り離しては考えられない。漢字や書物とともに紙や筆、墨の製法が伝わり、それと一緒に硯ももたらされたと想定できるからだ。
 『古事記』は、「応神天皇の16年に、百済より王仁(わに)が来朝し、論語と千字文を伝えた」と記す。また、『日本書紀』は、小野妹子が隋から帰った翌年にあたる推古天皇18年(610)には、「高麗王、僧曇徴(どんちょう)、法定(ほうじょう)を貢上(たてまつ)る。曇徴、五経を知り、且た能く彩色および紙墨を造り、并せて碾磑(てんがい)を造る」(高句麗の王が曇徴と法定という二人の僧侶を遣わした。曇徴は儒教や仏教によく通じている上に、絵具や紙、墨の製法もよく心得ており、水臼も造った」という。
 古墳時代(2〜6世紀)の壁画に、墨、朱、緑、黄などの彩色が用いられていることから、墨や硯は『日本書紀』の記述よりかなり早い時期に伝来したのではないかと考えられている。また、近年の発掘調査によって、木簡、漆紙文書(うるしがみもんじょ)、墨書土器(ぼくしょどき)などの文字資料が大量に発見されている。多種多様なこれらの遺物は、7世紀以降、国家の形が整うにつれ、役人などの階級の人々の身近に、広く筆・墨・硯が備えられたことを示している。
 さらに時代が下ると、毛筆を使って古典や詩歌を芸術的に表現する「書道」が教養の基本とされ、硯は文人や貴族などの愛用品となっていく。

いろいろな古硯の形と硯土。※「和漢研譜」「七十一番職人歌合」参照。

須美須利、研、硯

 「硯」の古字は「研」(「平らにとぐ」の意)であり、中国語では「イェン」と発音する。日本では、平安初期の『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』に「硯、訓は須美須利」とあるように、「すみすり」と読んだが、平安中期の『源氏物語』や『枕草子』では既に「すずり」と読まれている。
 中国製の硯を「唐硯(とうけん)」といい、日本製の硯を「和硯(わけん)」という。唐硯では、端渓硯や歙州硯、洮河緑石硯、松花江緑石硯などが日本でもよく知られる。
 日本で硯石の採掘が始まるのは平安中期であるが、その背景には和様の書道が盛んになったことがある。鎌倉時代には、日宋貿易によって数多くの唐硯が輸入され、陶硯に代わって石硯が広まっていく。室町時代には書院造りの部屋に文房具を飾ることが風雅とされ、唐硯が珍重された。さらに江戸時代に入ると、寺子屋の普及とともに全国的に石硯の需要が高まり、中には藩が管理する硯山もあった。
 日本の硯石といえば、赤間石(山口)・雨畑石(山梨)・玄昌石(宮城、雄勝石ともいう)・若田石(長崎)・高島石(岩手)・鳳来寺石(愛知)・土佐石(高知)などが知られ、赤間硯と雄勝硯は国の伝統的工芸品に指定されている。
 かの端渓硯は、広義には広東省高要県産の硯石を使ったものを指すが、一帯には数十の硯坑(けんこう)(硯石を掘るための洞口)があり、硯坑ごとに石質は異なる。また、古硯(100年以前経っているもの)と新硯でもその質には大きな差がある。日本でも同様で、産地が同じでも石質が同じとは限らない。評者によって評価が異なることも、硯の奥深さといえるだろう。

堀尾信夫(ほりお・のぶお)略歴

昭和18年(1943) 山口県下関市に生まれる          
昭和42年(1967) 久留米大学卒業、父卓司に師事 
昭和46年(1971) 日本伝統工芸展初入選 入選26回
        西部工芸展      受賞2回
        日本工芸展山口支部展 受賞4回        
昭和50年(1975) 日本工芸会正会員         
昭和56年(1981) 山口県立美術館にて父子展開催
        第1回下関市芸術文化振興奨励賞受賞
昭和58年(1983) 山口県芸術文化振興奨励賞受賞
平成 2年(1990) 日本工芸会山口支部常任幹事
平成 7年(1995) 岐阜高島屋にて個展開催
平成 8年(1996) 第1回エネルギア伝統文化賞受賞
平成10年(1998) 下関市教育功労者表彰           
平成11年(1999) 第14回伝統工芸第7部会展 日本工芸会賞受賞
        第46回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞受賞
平成12年(2000) 第15回伝統工芸第7部会展 鑑・審査委員(4回)
        山口県選奨受賞
平成13年(2001) 第47回日本伝統工芸展 鑑査委員(2回)
        第36回西部工芸展 審査委員
平成14年(2002) 山口県指定無形文化財赤間硯保持者に認定
        日本工芸会山口支部副幹事長
平成15年(2003) 下関市立美術館 作品収蔵
        下関市立美術館にて「硯司 堀尾信夫の世界」展開催
平成16年(2004) 梅光学院大学博物館リニューアル開館記念企画展
        「赤間関硯−歴史・硯司の視点から」開催
平成18年(2006) 国民文化祭山口(工芸部門) 推進委員長
平成20年(2008) 中国文化賞(中国新聞社)受賞