四代、百五十年
天然樟脳づくりに生きる

天然樟脳 / 内野清一・内野和代「職人ストーリー」

卑弥呼の里・瀬高

 福岡、太宰府、鳥栖、久留米…九州自動車道を南へ進むにつれ、車窓の左右に広々とした風景が展開する。九州を代表する穀倉地帯、筑後平野だ。初夏は収穫を控えた麦で金色に染まり、秋には稲穂が揺れる。みやま市瀬高町(旧山門郡瀬高町)は、この筑後平野の南に位置する人口二万三千人ほどの町である。町の北、筑後市との境には矢部川がゆったりと流れ、川沿いに湧く船小屋・長田鉱泉は全国有数の炭酸含有量を誇る。
 古代史ファンには「邪馬台国九州説」の有力候補地の一つとして知られる。
 最初にこの説を唱えたのは、江戸中期、六代将軍・徳川家宣に仕えた儒学者の新井白石だった。瀬高町の旧名にもある山門郡の「ヤマト」という音が「ヤマタイ」に一致すること、また、『日本書紀』巻九の神功皇后の項に「山門県に行き、土蜘蛛(田油津媛)を殺した」とあり、この地に女性首長がいたと考えられることなどがその理由である。その後も、白鳥庫吉、橋本増吉、井上光貞ら、著名な学者が、この地を邪馬台国に比定してきた。
 山麓に古代朝鮮式山城とされる神籠石が残る女山は、筑後平野を一望する要地に位置し、その昔は「女王山」と呼ばれていたという。近くには卑弥呼の墓と伝わる「権現塚古墳」をはじめ、多くの古墳や遺跡が点在している。古代史の謎を秘めた瀬高の田園風景は、なかなかに奥深い。

筑後平野の南に広がる瀬高町。初夏には風にそよぐ麦畑が広がる。

三百年の時が育てた大樟の森

 瀬高でひときわ目を引く風景といえば、矢部川の河川敷に沿って広がる大樟の森だろう。船小屋温泉大橋が跨ぐのは、「長田狐林」と呼ばれる台地の端で、6キロも続く森のほんの一部にすぎない。
 あまりの緑の豊かさに、自然林と思う人も多いが、隣接する立花町まで続くこの大樟の森は、いまから300年以上前の元禄8年(1695)、柳川藩が矢部川の水害防備のために植樹したものである。
 初めに、通称「千間土居」と呼ばれる堤防が築かれ、続けて「長田土居」が築かれた。樟は、その根で堤を固めることを期待されて植えられたのだという。生長が早く、虫害に強く、耐水性がある樟は見事に育ち、いまもしっかりその役目を果たしている。
 普請奉行として工事を指揮したのは、田尻惣助・惣馬親子だった。
 樟は長田狐林の中に整備された「中之島公園」だけでも千三百本を数える。厳しい工事を急がせる普請奉行に不満を募らせた者も多かったようで、柳川藩では当時、「木六、竹八、葦九月、惣馬の首はいまが切りどき」という、ちょっと物騒な歌が流行ったらしい。
 そんな不評を買ってまで植えた樟はいま、幹周り3メートル、高さ15〜20メートルにも育ち、朝に夕に、人々を木陰に憩わせている。また、一帯はゲンジボタルの名所としても知られ、夏には鮎を釣る人や、川遊びをする子どもたちで賑わう。
 矢部川の水と樟の緑の織りなす風景は、眺める者の心を柔らかく包みこむ。「公園を造ったわけではない」などと嘯きながら、まんざらでもなさそうに空から見下ろす、お奉行様の顔が見えるような気がするのは、私だけだろうか。
 300年の時が育てた大樟の森は、昭和49年(1974)、国の天然記念物に指定された。

矢部川沿いに続く「中之島公園」と船小屋温泉大橋。

日本でただ一軒の天然樟脳工場

 矢部川の南に広がる瀬高町の上長田地区。船小屋温泉大橋近くで国道から脇道に入ると、清涼感あふれる香りが漂ってくる。その香りの先に、全国でただ一軒、天然樟脳をつくり続けている内野樟脳の工場はあった。
 「『初めてでも、地図は要らんね』って、言われますもんね」。内野清一さんと妻の和代さんが笑いながら出迎えてくれた。清一さんは背丈ほどもある円盤型の切削機(カッター)で、樟をチップ(木片)にする作業中だった。
 近づくと、思わず深呼吸したくなる爽やかな香りが一段と強くなる。風のある日は100メートル以上離れた国道辺りまで届くという。
 工場の前に、山のように積み上げられた樟の丸太が目を引く。つい最近、神社の依頼で剪定した枝だ。
 「あちこちの神社から頼まれたり、『倒れそうだから伐ってほしい』と一般のお宅から電話がかかって来ることも多いね。市場で仕入れることもできるし・・・」と清一さん。矢部川沿いの大樟の森に限らず、瀬高は昔から樟の多い土地柄で、樟脳づくりの材料に困ることはないという。
 伐採する際には、樹主さんと作業するスタッフ全員が揃って、御神酒と塩でお祓いをしてから作業に取りかかる。巨樹や老木には神が宿る――信仰を持つ持たないにかかわらず、日本人はどこか奥深いところで、同じ意識を共有しているのではないだろうか。巨木に育つことが多い樟は、そんなことを実感させる木でもある。

瀬高町長田。内野樟脳へ続く道。
内野樟脳の工場外観。手前は小型クレーンを装備したトラックで、通称「ユニック」。原木の搬送に活躍する。

四百年変わらない樟脳づくりの原理

 昭和の中頃まで、日本で防虫剤といえば樟脳だった。製法は「水蒸気蒸留法」と呼ばれる。樟の原木を細かいチップにして甑で蒸し、出てくる蒸気を冷やして結晶化させ、搾って固めるというその基本原理は、日本に樟脳の製法が伝わった400年余り前から変わっていない。現在の工程は、その基本の上にさまざまな工夫が加えられて、生み出されたものである。
 内野樟脳の創業は、江戸時代の終り。清一さんは、以来150年続く樟脳師の四代目である。父の跡を継いで四半世紀が過ぎた。
 昔は、樟脳づくりといえば、原木と冷却用の多量の水が得られる山裾に工場を構えることが多かったが、「樟も水も豊富な瀬高では、山の近くではなくても樟脳がつくれた。この辺りにも、樟脳屋が十軒くらいありました」と清一さんは言う。
 その樟脳屋が四、五軒になり、跡を継いだ頃には、他所では鹿児島と長崎に一軒ずつとなり、平成5年(1996)から6年(1997)にかけて、その二カ所とも廃業する。こうして、日本でただ一軒の樟脳工場となった背景には、合成防虫剤の登場だけでなく、「専売」という制度の歴史が絡んでいる。

世界市場を席巻した日本の樟脳と専売制

樟脳工場。左側は明治時代からの建物。手前の丸太が樟脳になる樟の原木。

 専売制とは、国にとって重要な品目の生産から流通、販売までを国などが一括管理し、そこで得る利益を独占する制度である。
 樟脳は日本の暮らしでは防虫剤だったが、諸外国では長い間、香料や薬品の原料として欠かせないものだった。さらに、明治維新と同じ頃に発明されたセルロイドや無煙火薬の原料、映画や写真のフィルムになることが、需要増と価格高騰に拍車をかけた。
 いまではレトロな素材になってしまったが、当時、セルロイドは、現代のプラスチックにも匹敵する画期的な発明品だった。そのセルロイドの生地をつくるには、生地の四分の一もの量の樟脳が必要だった。
 薩摩藩と土佐藩は早くから樟脳を藩の専売品として莫大な利益を得た。彼らが勝ち組となって樹立した明治政府は、樟脳の専売政策を引き継ぐ。
 まず、明治32年(1899)、日清戦争で領有した台湾で専売制を導入し、明治36年(1903)には国内の樟脳も専売とした。その年の日本の樟脳生産量は、世界の90%を占めた。江戸の半ばから第二次大戦前後は、樟にとっては受難の時代だったといえるかもしれない。
 生産者にとって、専売品であるということは、作っただけ国が買い上げてくれるということである。価格も予め決まっているから、安心して生産に励むことができた。
 戦後も樟脳の専売制は継続されるが、昭和21年(1946)の台湾返還、第一次大戦中にドイツで開発された合成樟脳の台頭、さらにインドなど主要輸出国の輸入制限などによって、需要は徐々に翳り、昭和28年(1953)の輸出高は前年の約三割にまで落ち込んだ。凋落はそのまま止まらず、合成樟脳の輸入が許された昭和37年(1962)、樟脳の専売制は、60年余り続いた歴史の幕を閉じるのである。

24時間のフル操業

 内野樟脳は、清一さんの曾祖父・末蔵さんによって、江戸時代の終りに創業され、清蔵さん、清一さんの父・武男さん(大正6年生まれ)と受け継がれてきた。清一さんは四代目である。
 チェンソーやユニック(小型クレーンを備えたトラック)などがなかった時代、樟脳づくりは重労働だった。内野樟脳では十数人の従業員を雇って樟脳をつくっていた。「うちには長崎の五島列島の人が来とらしたと。この前は、樟脳づくりをしておったという人が見学に来て、『あぁ、この匂い。懐かしくて涙がでるごたある』と言っとらした」と、清一さんは語る。
 昭和の終り頃までは、一日24時間、竃の火を落とすことはなく、夕方5時に従業員が帰った後は、翌朝まで、家族が交替で火の番をした。
 「あの頃がいちばん大変だった。冬はまだいいけれど、夏はもう暑くて暑くて・・・」と清一さん。仕事は過酷だったが、「給料を受け取りに行った親父は、リュックサックに新品のお札で入りきらないくらい貰って帰っていた」。専売品だった頃の話だ。

昭和40年代前半まで、原木は馬車で運んでいた。馬も飼っていたという。
父・武男さん。
若かった頃の父・武男さん。後ろの切削機をいまも使っている。

従業員の方たちと。左から2人目が清一さん、隣は母・つや子さん。

夫婦二人の樟脳づくり

 「樟脳をつくるなんて、夢にも思っていませんでした」
 和代さんが樟脳づくりを手伝うようになったのは、父に頼まれた清一さんが33歳で家業を継いでからだ。
 高校卒業後、愛知県の自動車メーカーに就職するものの、二週間で寮を抜け出し、トラックの運転手などを経て福岡に戻った清一さんが和代さんと出会ったのは、22歳の時。そのまま福岡で暮らしていた二人は、父・武男さんの入院を機に、瀬高で暮らし始める。
 「樟脳づくりはあの頃がどん底だった」と清一さんは振り返る。3、4人の人を雇っていたが、樟脳価格は下がるばかりで、父の後ろ姿に「苦労が多い」と感じていた。それでも継いだのは、100年以上続けてきた家業を絶やしたくないという思いだったのだろう。4人きょうだいの次男に生まれたが、10歳上の兄は、清一さんが生まれる前に3歳で亡くなっている。父が頼れる男の子は、清一さんだけだった。昭和61年(1986)夏、武男さんは、樟脳づくりを若い二人に託して、69歳で亡くなった。
 こうして引き継いだ樟脳づくりだが、初めから順調だったわけではない。何しろ、15年以上、ふるさとからも家業からも離れていたのである。「よろしくお願いします」と、関係先にあいさつに行っても、先々で「若いもんに何ができる・・・」と見られた。「親の七光りじゃダメだ。自分の力で何とかしなくては」と思った清一さんは、新しい取り引き先の開拓にも励んだ。
福岡を襲った大型台風のために、工場が半壊したこともある。平成6年(1994)のことだ。「そのときは、もうやめようかと思った」二人だったが、同じ台風被災をきっかけに廃業を決めた長崎の同業者から竃を引き取り、翌年、工場を作り直して、樟脳づくりを再開する。
 新しく据えたステンレス製の竃は、それまで使っていた鋳物製のものより熱効率がよく、竃を焚く時間が短くて済むようになった。夫婦二人での樟脳づくりが軌道に乗るのは、その頃からだ。
 「それでようやく、周囲の人たちに『どうも本気らしい』と思ってもらえたようです。継いでから10年以上かかったねぇ」と、清一さんは笑った。

鹿児島旅行。後ろに見えるのは開聞岳。
平成元年(1989)頃。旧工場の前で。
父の跡を継いだ頃の清一さん。

あるがままの自然のリズムで

工場の裏手。写真は明治期に建てられた部分。
以前使っていた円盤型切削機。

 樟脳づくりの作業は1週間ひと巡りで進む。2〜3日かけて樟をチップにし、甑に詰めて竃を焚く。これを3日繰り返し、1日おいて、結晶になった樟脳を引き上げ、一晩かけて絞り、樟脳と樟脳油に分離させるのである。
 タンタンタン…リズミカルな音をたてて、樟の原木が見る間に小さくなっていく。チップづくりは簡単そうに見えるが、ひと抱えもある材は男手でないと動かせないほど重い。清一さんは、その材に体を預けるようにして、木目に沿って刃を当てていく。
 できたチップは二階に上げ、杵でつきながら甑に詰める。「つき方にも要領があると。しっかり固めないと、蒸気が上にだけ抜けてしまうからね。これで結構、大変な作業」と清一さんが言うと、「下も大変よー」と和代さんの声がする。できたチップをベルトコンベアーに乗せているのだ。清一さんは、チップが上がってくる量や間合いで、その日の和代さんの体調がわかるという。
 詰め終わったら、竃に火を入れ、9〜10時間焚き続ける。
 カポッ、カポッという音がしたら水が足りない、パイプを伝って「返し水」が勝手に出ていくようだと水が多い・・・
 耳を澄まし、匂いを確かめ、焚き口に落ちてくる灰の量で燃焼度を見計らう様子は、子守りをしているようにも見える。
 焚き上げると火を落とし、チップを詰め替え、また火を入れ・・・手間と時間のかかる幾つもの工程を経て、ようやく樟は結晶とオイルに姿を変えるのである。
 檜や杉からはオイルは採れるが、結晶をつくれるのは樟だけである。日本人は、この樟からの恵みの受け取り方を、400年かけて少しずつ改良してきた。内野樟脳が受け継ぐ製造法は、その最終形ともいえるものである。
 それは、24時間操業の時代を経て、7日サイクルという、人の暮らしに適ったリズムとなった。
 仕事を終えて飲む一杯のビールを何よりの楽しみに、朝から夕方まで働く。気負わず、倦むことなく、日々すべきことを繰り返すーー 自然で真っ当な仕事から生まれるからこそ、私たちは天然樟脳の香りに惹かれるのかもしれない。

見直され、新たな光を浴びる天然樟脳

 「やさしい香りでしょう」。 樟脳を語り始めると、清一さんの目もやさしくなる。天然樟脳の香りは、風に当てるとさっと消え、衣類に残らない。口コミでよさを知った人から、電話やインターネットで注文が届く。「衣替えの季節は、発送先の住所が南から順に北へ上がっていく。日本列島は長いと思うねぇ」と、楽しそうだ。灰汁抜き、匂い袋、車の芳香剤・・・防虫以外の用途も広がっている。
 原料は樟と水だけ。添加物や化学物質を使わないことから、アトピーやアレルギーに悩む人にも好評で、取り扱いたいという企業も出てきた。最近はアロマとして使う人も多く、すぐに注文に応じられないこともある。量産できないのが悩みだ。
 日本でここだけに残った天然樟脳づくりの技である。「後継者は?」という問いに、清一さんは「いつまでできるか分からんけど、続けられる限りは続けます」と答える。
 いままで何人か訪ねて来た若者もいたが、「本人の気持ち次第。他人がどんなに勧めても、こればかりはどうにもならん」と思っている。
 いま、清一さんが期待しているのが、樟脳オイルの効能である。「オコゼの針に刺されたという人に送ったら、腫れと痛みが治まったといって、お礼に大きな鰤を送ってこらした」こともある。
 もともと消炎剤や鎮痛剤、カンフル剤として珍重された樟脳のエッセンスである。「樟脳油には、まだまだ知られていない効能があるんじゃないでしょうか。これからもっと用途が見つかると思うとります」
 千数百年もの間、人の傍らに在り、いまなお未知の力を感じさせる樟と樟脳。やさしい香りを放ちながら、これからも「奇しき木」であり続けるのだろう。

山の神が祀られている内野家の床の間。左に見えるのは、チェーンソーが登場するまで伐採用に使われていた大鋸。

焚き口の傍らで。冬は暖を求める近所の人たちの語らいの場に変わる。

内野清一(うちの・せいいち)略歴

昭和26年(1951)福岡県三潴郡瀬高町(現・みやま市瀬高町)に生まれる
昭和45年(1970)旧瀬高町立水上小学校、東山中学校を経て、久留米工業大学附属
高等学校(現・祐誠高等学校)自動車学科卒業。トヨタ自動車(株)に就職し、名古屋へ
昭和48年(1973)名古屋から福岡市へ
昭和59年(1984)帰郷し、父の仕事を継ぐ
平成22年(2010)6月死去。58歳

内野和代(うちの・かずよ)略歴

昭和26年(1951)福岡市に生まれる
昭和41年(1966)吉塚中学校卒業後、専門学校へ
昭和49年(1974)㈱日本技建福岡支社入社
昭和52年(1977)内野清一と結婚
昭和59年(1984)清一とともに樟脳づくりを始める