蒸す

天然樟脳 / 内野清一・内野和代「天然樟脳の物語」

数十年、数百年を生き抜いた
樟の生命の滴りを、
刻み、蒸し、冷やして
もう一度、生命を与える。
「奇しき木」の名前そのままに
不思議な力を秘めた木を
知り尽くし、生かし尽くす
「樟脳」という技。

樟と樟脳

樟という植物

 関門橋を渡って九州に入ると、どこかしら山の形が変わったように感じる。ことに春先は、山野のあちらこちらが若草色に丸く盛り上がり、「山笑う」とはこういうことかと思わせる。芽吹いたばかりの樟若葉のせいだ。
 樟(学名Cinnamomum camphora)は、クスノキ科の常緑広葉樹で、世界でも中国の揚子江以南から台湾、済州島(韓国)、日本の西南部一帯の暖地にしか生育しない。九州ではおなじみの樟は、関東から北ではあまり見かけない木なのである。
 常緑樹だが、落葉しないのではなく、毎年5月頃、新しい葉と入れ替わるように古い葉を落とす。長命で、生長が早く、大木に育つことも特徴で、高さ20メートルを超えるものも珍しくない。市街地や学校、神社の境内などで伸びやかに枝を広げ、たっぷりと緑を滴らせる樟は、それだけで森のように見える。
 現在、日本一の巨樹とされるのは、鹿児島県蒲生町の「蒲生の大楠」である。樹高30メートル、幹周り24.2メートル、根周り33.6メートル、樹齢は1500年と伝わる。
 根元に8畳ほどもある洞を抱えた巨樹の全体は、素人のカメラではフレームに収まらない。蒲生八幡神社のご神木とされてきたが、むしろ、その巨きさに遥かな時間と永遠の生命力を感じた人々が崇め、そこに社が建てられたのでは、と思わせる。
 「蒲生の大楠」だけではない。環境省が調査した「日本の巨樹」のベストテン(十一本)のうち、同じく鹿児島県の奥十曾の山中に立つ江戸彼岸桜を除く十本すべてが樟であることからも、樟が巨木になりやすいことがわかる。
 ちなみに、日本ではクスノキを「樟」とも「楠」とも記すが、「楠」は「南方に育つ木」あるいは「南方から渡来した木」を意味し、中国ではタブノキ(椨の木)を指す。「高く伸びる木」を表す「樟」とは本来、別種の木だが、どちらもクスノキ科の常緑高木で、暖かな地を好み、木や葉の姿形も似ている。宝永7年(1709)に刊行された『大和本草』(貝原益軒編著)では、香りが強いものを「樟」、弱いものを「楠」として区別しているが、いつのまにか混同されたらしい。

木材としての樟

矢部川沿いに広がる大樟の森。300年以上前に植えられた樟が6kmにわたって続いている。

 樟はご神木としてだけでなく、古くから用材としても重要な木だった。
 『日本書紀』は巻一「神代」の中で、樟を「素盞嗚尊が抜いた眉毛から生まれた木で、髯から生まれた杉とともに『舟をつくるのによい』といわれた」と伝えている。縄文期の遺跡から樟材の丸太舟が出土した例も多く、古代海人族にとっては海上交通の守り神として神聖な木だったと考えられている。
 木目が美しく、耐久性があり、加工もしやすい樟は、今日でも、寺社の建築材や、家具、彫刻、楽器の用材など、幅広く使われている。また、厚く、縁が堅い樟の葉は、擦れあうと他の音と干渉して騒音を抑える作用がある。街路や学校、病院などに樟が多いのには、そんな理由もある。

芳香と精油の木

 新緑の頃、大きく枝を広げた樟の木陰を歩くと、薄荷に似た爽やかな匂いに包まれる。樟が全身に蓄えている精油成分「樟脳」の香りである。
 Cinnamomumという学名からも分かるように、クスノキ科の樹木には独特の芳香を持つものが多い。葉がスパイスとして利用される月桂樹(ローレル)、和菓子用の楊枝になるクロモジ、そして、にっき飴の香りのニッケイ(シナモン)などは、私たちにもなじみが深い。この成分は、化学的にはテルペン類の「カンファー」と呼ばれるもので、かつて強心剤「カンフル」としても盛んに利用された。
 虫を寄せつけないだけでなく、防湿・鎮痛・消炎・血行促進など、さまざまな力をもつこの木を、古の人々は「臭し木」「奇し木」「薬の木」と呼んだ。「クスノキ」の語源である。
 古来、強い香気は、洋の東西を問わず、邪悪なものから魂を護ると信じられてきた。奈良の正倉院に伝わる香木「蘭奢待」が珍重されたのも、仏像に白檀や樟、檜などが使われるのもそのためだ。芳香を放つ樹木のアロマテラピー効果に人々は気づいていたのだろう。

樟脳の歴史

「焙烙法」による樟脳づくり。釜に水と樟の木片を入れて火を焚き、蓋にたまった蒸気を冷やして樟脳を得た。当時の樟脳は水分が多い粗製樟脳だった。明治以降は「蒸す」製法に変わる。右下に積まれているのが樟の木片。宝暦4年(1754)刊『日本山海名物図会』より。

 樟脳利用の歴史は古い。西暦600年頃にはアラビアで貴重な薬として使われ、その後に伝わったエジプトやギリシャでは、神殿での礼拝時に、人や物を清める霊剤としても使われた。
 もっとも、樟脳とほとんど同じ香りをもつ「竜脳」という木があり、当時、両者はよく混同されたため、記録にある樟脳が竜脳だった可能性はある。いずれも東南アジアからもたらされたもので、木の割れ目や根元などから自然に結晶化したものを採取していたのではないかと考えられている。
 樟脳の生産はヨーロッパからのニーズに応じて増え続ける。13世紀後半に広くアジアを旅したマルコ・ポーロが、『東方見聞録』の中で「福建省の山中に樟脳の採れる木が広く生育している」と述べていて、この頃には中国でも樟脳の生産が始まっていたと思われる。その製法はやがて、南シナ海沿岸部や朝鮮半島、揚子江流域の中国奥地へと広がり、明朝末期には海を越えて台湾へ伝わった。

日本の樟脳づくり

 日本で樟脳が生産されるようになった時期は、「元禄年間(1700頃)といわれており、(略)琉球から鹿児島に伝来した中国由来の方式」(服部昭『クスノキと樟脳』)、「室町時代ころから生産されるようになり」(佐藤洋一郎『クスノキと日本人』)など諸説あるが、ここではもう一つの説を紹介したい。慶長三年(1598)、豊臣秀吉による「慶長の役」の際に、薩摩藩に連行された朝鮮人陶工によって苗代川(日置市)で始まったというものである。
 寛永9年(1632)の薩摩藩の文書には、鉄砲、蝋、漆などとともに樟脳が〝他国に勝手に出してはいけないもの〟とされ、同じ頃、薩摩藩のオランダ向けの樟脳輸出も始まっている。
 当時の樟脳づくりは「焙烙式」といわれるもので、蒸気を冷やして得られる結晶を最も効率よく付着させられる素焼鉢が必需だった。これをつくれたのが、苗代川に定住した朝鮮人陶工・鄭宗官である。薩摩藩は素焼鉢製作を代々の鄭家のみに許し、その技術を秘守したという。

鹿児島県日置市東市来町美山に立つ「樟脳製造創業の地」の碑。陶工・鄭宗官によって樟脳の製造が始まったことを伝える。連行された人々の中には、養蜂や刺繍などの技術をもった職人もいたという。 写真提供/日置市商工観光課

維新を支えた樟脳

 こうして量産体制を整えた薩摩藩は、南蛮貿易や密貿易を通してヨーロッパ市場を独占するほどの樟脳を売りさばくことで藩財政を立て直し、後の討幕の資金となる巨利を得るのである。
 薩摩と同じように樟の巨木や自生林に恵まれていた土佐藩も、早くから樟脳に着目した。宝暦年間(1751〜1764)に始まった藩内の樟脳生産量は、万延元年(1860)の「土佐式」と呼ばれる新製法の開発によって飛躍的に伸びる。大河ドラマ『龍馬伝』で、後に三菱財閥の総帥となる岩崎弥太郎が、藩内の樟の本数を調べ回るシーンの背景には、土佐藩のこうした状況があった。長崎に赴いた弥太郎は、樟脳を売った金で藩の軍艦や武器を購入している。
 江戸時代、金銀に次ぐ日本の輸出品が樟脳だった。ヨーロッパはもとより、中国やインドでも日本製の樟脳はもてはやされ、外貨獲得に大きく貢献する。『樟脳専賣史』は「特産樟脳が維新の大業に見えざる大きな貢献をなした」と記す。明治維新は樟脳が支えたともいえるのである。

天然樟脳の盛衰

 明治2年(1869)、アメリカでセルロイドが発明されると、原料となる樟脳の需要はますます増大し、セルロイドからは、さらに写真フィルム工業が派生する。第二次大戦前まで、樟脳は日本の主要輸出品の座を守り続けるのである。しかし、昭和初期、松脂に由来するテレピン油から合成樟脳が大量に生産されるようになると、天然樟脳は徐々に衰退。現在では福岡県みやま市瀬高町の「内野樟脳製造工場」が、その技を守るのみとなった。

内野清一(うちの・せいいち)略歴

昭和26年(1951)福岡県三潴郡瀬高町(現・みやま市瀬高町)に生まれる
昭和45年(1970)旧瀬高町立水上小学校、東山中学校を経て、久留米工業大学附属
高等学校(現・祐誠高等学校)自動車学科卒業。トヨタ自動車(株)に就職し、名古屋へ
昭和48年(1973)名古屋から福岡市へ
昭和59年(1984)帰郷し、父の仕事を継ぐ
平成22年(2010)6月死去。58歳

内野和代(うちの・かずよ)略歴

昭和26年(1951)福岡市に生まれる
昭和41年(1966)吉塚中学校卒業後、専門学校へ
昭和49年(1974)㈱日本技建福岡支社入社
昭和52年(1977)内野清一と結婚
昭和59年(1984)清一とともに樟脳づくりを始める