山田錦に
囲まれた酒蔵

日本酒 職人 田中克典「職人ストーリー」

蔵の前には、自家栽培の山田錦の田んぼが広がる。酒米の取引農家は約160軒。

「白糸酒造」創業記

 身を切るような寒さと静寂に包まれた早朝、『白糸酒造』の仕込みが始まる。
 吐く息の白さと裏腹に、櫂棒を手に醪タンクをのぞき込む蔵人の頬は、みるみると紅を帯び、その目には凛とした光が宿る。
 平成27年(2015)現在、日本には約1500を超す日本酒の酒蔵があるという。そのうち福岡県は、約70軒。糸島市内にある蔵は『白糸酒造』ただ1軒である。
 かつては周囲に4軒ほどあったが、糸島市二丈深江にあった「鍋山酒造」が昭和50年頃に廃業してからは、唯一となった。
 『白糸酒造』は、安政2年(1855)、初代の田中甚三郎が『田中酒造場』として創業。当初、父の吉右エ門が醤油業を営んでいたが、大地主でもあったので甚三郎の代で酒造業に商売替えをした。甚三郎は長崎代官所に出向き、酒造醸造業の免状を得たが、志半ばで病に倒れてしまう。その意思を受け継いだ二代目の喜蔵が再び免許を申請、酒造りを始めるに至った。
 以来、三代目の喜八、四代目の幾の助、五代目の護を経て、六代目の一彦、七代目の信彦、八代目の克典へと、酒造りのたすきは受け継がれている。平成16年7月には、主要銘柄の名を冠した『白糸酒造』に改め、新たなスタートを切った。 
 糸島市に現存する最も古い酒蔵は、日本唯一のハネ木搾りも然り、市としても蔵をこれからも守り育てていくとか。やはり、この蔵は酒の神に愛されているといえるだろう。

平成15年まで家名の『田中酒造場』と称していた。

白壁造りの蔵の佇まいは、日本のなつかしい風景。

杜氏と酒蔵の出会い

 代々の酒造りを支えてきたのは、杜氏と呼ばれる酒造りの熟練工であった。『日本山海名産図会』に、杜氏は「酒工の長なり。またおやじとも云う」と記されているように、大工の世界では棟梁の役割を果たす。
 糸島近隣の酒蔵には、芥屋杜氏と呼ばれる集団がいた。半農半漁の彼らは、毎年11月の農閑期になると酒蔵を訪れ、代々受け継がれた蔵の仕込みにいかんなく腕を奮ったという。一般の出稼ぎとは違い、蔵の命運をかけた酒造りを一任される杜氏は、酒を造る技術はもちろん、蔵人を束ねる統率力や人間性をも要求される。酒蔵にとって最高の杜氏と出会うことは、僥倖ともいうべき幸運であったに違いない。
 『白糸酒造』もまた、ある一人の杜氏によって、地域に根づく蔵として存続してきたといえるだろう。それこそが六代目〜八代目までの三代にわたり、杜氏を務めた芥屋杜氏の中村常雄さんである。
 中村さんの記憶によると、1965年の全盛期には、芥屋杜氏の数は30数名にものぼり、各々がひと蔵につき5〜10人の蔵人を連れていくのが恒例だったらしい。
 中村さんは、中肉中背の引き締まった体つきと、子供のような溌剌とした笑顔が印象的で、御年78歳(取材当時)とは思えない俊敏な動きと、闊達なムードがあり、ものづくりへの情熱が伝わってくる。当時の酒造りについて、記憶を頼りに語っていただいた。

中村常雄の杜氏人生

竹製の櫂棒は、中村さんの手作り。八代目のために今も作る。
タンクの掃除に使う稲藁を束ねた束子も中村さんの手作り。
杜氏を引退してからは、奥様のスエ子さんとイチゴ栽培に専念する。

 「小柄で痩せっぽっち」だった中村少年は、昭和26年、中学卒業と同時に「飯炊き」として、福岡県宗像の「勝屋酒造」に入った。四人兄弟の末っ子、おまけに一人息子。家族から溺愛されたが生活は貧しく、酒蔵で働いて一人前といわれた、そんな時代だった。飯炊きの傍ら、蔵子として肉体労働にも精を出したという。
 20歳前には、福岡市内の「柴田酒造」に「見初められ、鍛え上げられた」。蔵子から麹屋、酛屋を3〜4年経験した後、杜氏の右腕となる蔵一に昇進。とはいえ、決して順風満帆だったわけではない。小さな石を一個一個積み上げるように技を学びながら、過酷な現場で人間性を培う日々が続いた。「杜氏の世界も派閥があって、蔵子でもお世辞が上手いのはすぐ幹部候補生。でも私は一匹狼だったし、一本気質でした」と話す中村さんの実直な人柄が伝わってくる。
 35歳頃、ついに杜氏としてデビュー。『白糸酒造』から声がかかったのは、杜氏として幾ばくかの経験を積んだ40歳の頃であった。ちなみに当時の杜氏といえば、「校長先生くらい尊敬される」存在だったとか。中村さんが蔵に入った頃、七代目の信彦さんは、まだ高校生。六代目は、「日本酒が大好きな方で、私たち蔵人が火床(蔵人の休憩所)におったら『杜氏さん、一杯汲んでくれんか』と声がかかりよったですね」
 地酒ブームが隆盛を誇る昭和50年代は、「白糸酒造」も急ピッチで製造量が増え、地域でもその名が知られるところとなった。「でも私が入った頃はまだ経営も苦しくて、新しい道具も買えませんでした。手に入るものを工夫して使いながら節約したねえ。重石をくくるロープも漁業用の紐を実家から持ってきたりね。田中家の皆さんには、代々可愛がってもらっていますので、報いないかんと一生懸命に仕えてきました」
 芥屋杜氏の特徴を尋ねると、「あまり上手やなかったかもしれんねえ」とおっとりとした笑みをうかべた。「とにかく真面目。曲がったことやらしたくなかったから」
 昭和後期、中村さんはハネ木が割れたら困ると、鉄工所を呼んで鉄で補強を加えた。また万が一に備え、新しい予備の樫の木も準備。「相当、無理もしてきた」。相棒のハネ木を見つめる杜氏の目は、優しい。
 冬の酒造りがすべて終わると肩の荷が降りる。春から夏にかけては百姓兼漁師。奥様のスエ子さんと始めたイチゴ栽培は、35年のキャリアだ。夫婦共々、朝六時から畑に通う。また「洋丸」という五トンの船を持っていた頃は、烏賊や鯛を釣るのが楽しみだったという。田畑に、海にと駆け回る中村さんは、糸島の風土を肌で知る数少ない「杜氏さん」なのである。

きりりと冷える早朝の空に舞う酒蔵の湯気。

杜氏の新旧交代

 八代目の克典さんは、中村さんにとって実の孫のような存在だという。ことに酒造りにおいては、親子のような関係といえるだろう。「克典さんが小さい頃は、私を慕うて蔵人が休憩する火床によう来よったです。一緒に寝たりしてそばから離れんやった」 七代目の信彦さんも「息子三人とも火床に出入りして、良いことも悪いことも覚えていったんじゃないですか。小さい時から、蔵は生活の一部でしたから」と頬を緩める。
 時代は移り、今、蔵元杜氏として酒を造るのは、大学で醸造学を学んだ八代目の克典さんだ。2014年から、中村さんはサポートに回っている。「困った時は電話がきますけど、私の出る幕はない。大学で学んできとるけん、安心して委せとります」。
 江戸、明治、大正、昭和、平成。創業160年を迎える今、『白糸酒造』の杜氏もまた粛々と新旧交代を迎えようとしている。(取材当時)

八代目の手がけるタンクを覗いて「上等!」と声をかける中村杜氏。

夜なべの家内工業

今は売店として開放している酒蔵と母屋。
『白糸酒造』七代目社長の田中信彦さん。

 七代目・信彦さんの幼少期。毎年、寒仕込みの季節が近づくと、蔵人達は、姫島から飯炊きの女性を連れて、大所帯でやってくるのが恒例行事だった。
 「経営は厳しかったですね。父は呑んだくれ、母はお嬢様育ちだけど気性の激しい人でした」。四人兄弟の長男だった信彦さんは、そんな両親が身を粉にして働く背中を見て育った。ラベル張りも手作業の時代。1時間で100本、包装までやると2時間かかる。「夜中2時頃までは母。それから父を起こして、ハイ、次はお父さんの番ですよって交代して今度は父が朝まで」。夜なべ仕事が当然の家内工業だった。
 当然、両親の会話も耳に入る。経営状態を理解していた信彦さんは「長男なので家に迷惑をかけちゃいかんと必死だった」。東京農業大学時代の仕送りは1年目だけ、2年目から学費も生活費も自力で工面した。神宮外苑などで開催される祭りでは、実家のワンカップを糸島からはるばるトラックに積んで販売したというから、母親譲りの度胸と商才を持ち得ていたのだろう。
 幼い頃から、母の配達によく着いて回った。「行きに寄った酒屋には、帰りにも必ず寄るように教わりました」。昭和40年代、田舎の角打ちは盛況で、客の足下に一本でも酒を置いておけば売れるという時代だった。
 大学卒業後は、すぐ実家に戻り、伴侶として見初めた文子さんと結婚。七代目若夫婦の誕生である。

七代目が担う蔵元の仕事

 七代目の信彦さんは酒屋の前掛け姿で、菰樽作りもする。福岡市内のホテルの結婚式に納品するという。「見よう見まねです」と笑いながらも、大瓶20本入りの大樽に縄を男結びに巻き上げていく要所を抑えた手捌きは、お見事。
 新酒の完成を告げるシンボル的な杉玉作りも信彦さんの仕事だ。「蔵開きの1週間前に3日程かけて作ります。簡単ですけど手間暇がかかるので、ああ、またこの時期が来たなあって」。1年の計は杉玉にありともいうべき“けじめ”の行事なのである。
 「この頃は、蔵に入ると息子に怒られますから」と温和に微笑む信彦さんは、工場の他にも井戸水のタンクの掃除をしたり、蔵先の自動販売機のジュースを入れ替えたり、見学者に蔵の説明をしたりと八面六臂。経営から出荷まで造り以外の一切を、嬉々として引き受ける働き者の社長である。
 自ら動くスタイルは、20代の頃から変わらない。「母譲りの負けん気の強さで、酒屋にも飛び込み営業していました」。商売下手だった父の挽回をするため、取引先の新規開拓に明け暮れたものだという。
 しかし、自分の力ではままならない事もある。肝心の酒造りは杜氏や蔵人達の仕事。「来年は、もう年やから来んよとか平気で言われるんです。酒造りができなくなるという不安は常にありましたから、克典には自分で酒造りをしなさいと言いました」。
 おそらく全国の酒蔵も同様の問題を抱えていたのだろう。平成に入り、蔵元杜氏が登場した背景には、杜氏集団の風習が時代に合わなくなってきたということもだが、生き残りをかけた蔵の決断があったのだ。

鏡開き用の菰樽作りに精を出す七代目社長。

酒蔵開きに下げる杉玉も社長の仕事。写真は2014年のもの。しめ縄は杜氏の中村さんが手がけた。

井戸水タンクなど蔵の設備管理にも余念がない。

外国の観光客も訪れる昨今。酒造りをわかりやすく解説。

七代目両親の想い

七代目社長の信彦さんと文子さん。
酒樽利用したりと工夫いっぱいの寄せ植えや売店のディスプレイは、文子さんの丹精込めた作品。訪れる客をあたたかく迎える。

 「克典も努力しているんでしょうけど、ご覧のようにああいう素成りですから」とにっこり笑う信彦さんだが、八代目には大きな信頼を寄せている。田中家には、福岡国税局の鑑定官の長を務めた伯父がいたそうだが、「彼の血も流れているのでしょう」。
 「冬場は蔵人中心の生活ですので、ほったらかしでした。子供の学校行事より蔵優先。半分は蔵のおじちゃん達に育ててもらったようなものですねえ」と語るのは、母親の文子さんである。「長男の克典が稼業の存在価値を感じてくれたことは、本当に嬉しかったですね」と頬をほころばせるも、「まだまだ危なっかしいですよ」と一言。六造り目になる克典さんの純米酒「田中六五」は今や業界では引く手数多の人気を博しているが、「調子に乗らず、支えてくれる人に感謝して、じっくりと地道にやって欲しい」と願っている。
 そんな文子さんは、酒蔵見学に訪れた人たちに手製の甘酒のスムージーを振る舞ったり、草花の寄せ植えを店の花壇で育てたりと細やかな気配りを欠かさない。「山田錦の塩麹は、お吸い物の隠し味におすすめ。私は女性の立場から麹や酒粕を使ったお料理を提案していけたらいいなあと思っているんです」
 各々の持ち場で、できることをやる。酒蔵は、杜氏や蔵人だけでなく多くの手によって支えられているのだ。

「ハネ木塾」で稲掛け体験

2014年10月25日、秋晴れの朝。蔵のすぐ前に広がる自家栽培の 山田錦の田んぼに、ハネ木塾のメンバーが勢ぞろい。 社長はじめ総出で稲刈りと稲掛けが行なわれた。

 日本酒は、ただ呑むだけでも十分に愉しい。しかし、そのバックグラウンドを知れば尚更である。『白糸酒造』には、日本酒の楽しみを共有する“プレミアム白糸ファン蔵部 ハネ木塾”なる会が存在する。
 募集は、蔵開きのある2月と4月。7回目を迎える2014年の会員数は、40名。年間通して、田植え、稲刈り、案山子作り、酒の仕込み体験などを行ない、汗を流す。ハネ木塾の中心的存在は、「もと米蔵だったショップを皆さんと交流できる遊び場にしたいと考えたのがきっかけなんです」と晴れやかな表情で話す文子さんである。
 稲刈りと稲掛けの日。朝から酒蔵は、大にぎわい。「わあ、元気でしたか?」「おはよう!」「いつもありがとうございます」。文子さんが会員一人ひとりと言葉を交わし、再会を喜ぶ姿は、まるで遠い親戚の集まりのような親しさに溢れている。
 この日は、七代目夫婦に加え、八代目の克典さんと妻の理恵さんも参加し、鎌を手に奮闘していた。刈り残しのないように、田に落ちている稲穂を拾い集めるのも大切な仕事だ。「ほら、その稲穂だけで、お猪口一杯分はあるよ!」と大人が笑えば、子供は「あっ、カエルがおるよ」とこわごわながらも興味津々。笑いがたえないひとときである。
 汗を流した後は、瓶詰め工場に机と酒瓶ケースで造った椅子を置き、手製の料理と酒を囲んで、お疲れさまの昼食タイム。こうした活動は、都会では味わえない連帯感をもたらす。一杯の酒から広がる“ご縁”を繋ぐ。それも地場に根づいた酒蔵の役割なのである。

八代目としての覚悟

 八代目の克典さんは、その経歴だけを辿ればエリートコースを最短距離で歩んできたといえるだろう。
 信彦さんの薦めで入学した東京農業大学卒業後は、広島の「独立行政法人 酒類総合研究所」に研究生として入所。その後、「東一」で知られる佐賀「五町田酒造」製造部長、勝木慶一郎氏の元で一造りを経験した。広島では、日本酒業界の風雲児、秋田の酒蔵「新政」の八代目も同期生だったという。
 自身の酒造りへの執着と覚悟が芽生えたのは、勝木氏から「山田錦という素晴しい米が目の前にある地の利を生かせ」という助言を受けた時だったと、克典さんが当時を振り返る。故郷の糸島そのものが、日本酒を醸すにふさわしい地なのだということを肌で感じた瞬間でもあったのだろう。
 七代目は言う。「克典は、利き酒の官能試験でいい成績を修めたらしいんですよ。だから酒造りの素質は、あるんじゃないかな。この蔵でお父さんとお母さんの子供に生まれて良かったと克典も言っていたというのを人から聞きましてね、嬉しかったです」
 すっかり父親の顔に戻った信彦さんだが、社長として蔵全体を見つめることも忘れない。「杜氏の中村さんも『毎年毎年が一年生』と言われていました。克典も当初は杜氏さんに教わりながらやってきましたが、今後は若い蔵人達に溶け込んで、彼らの力を借りながらやっていかなくてはいけません。それが今後の課題でしょう」
 蔵は、八代目の腕にかかっている。

酒造りの遺伝子

 克典さんが子供の頃、蔵は遊び場であり、居場所だった。今でも覚えている光景がある。「甑から取り出した米を製麹室の前に広げて冷ましていました。その後、蔵人と一緒にそこに寝てたんですけど、夜中、熱くなって俺だけ起き上がったことがある」。こうした蔵の記憶は、克典さんの五感をふるわす遺伝子に確実に刻み込まれているに違いない。
 杜氏という既成のイメージからは意外な金髪がトレードマーク。少々無愛想で言葉数も少ない。しかし、自分に正直で裏表のない人柄がじわじわと伝わってくる。こと酒造りになると、繊細で愚直な面も顔を出す。
 克典さんが最初に手がけた「田中六五」は、全国8軒の酒屋に限定で卸しているが、初造りから、「地元福岡の定番酒として発信しよう」と応援してくれたのが住吉酒販の庄島さんである。克典さんと同じく酒屋の跡を継ぎ、「克典さんの酒造りは、彼の外見と違って誠実で真面目。王道を行く酒造りができるセンスや感性がある方です」と高く評価している。

文子さん提案の塩麹や梅を使った商品。梅酒「しらうめの庭」は、2013年の「天満天神梅酒大会」で308銘柄の中で優勝。15年ほど熟成させた大吟醸の古酒に、糸島産の梅を半年漬け込んだもの。ハネ木搾りの名を広めた。

「田中六五」を福岡の定番酒に

 「田中六五」は、やわらかな口当たりながらも、どっしりとした野趣あふれる旨みに満ち、日本酒好きの心をつかんでいる。
 2013年より運行された日本初のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」のメニューにも加わるなど人気は高まっている。さらには、「田中六五」の取引を熱望する全国の酒屋からの賞讃の声も数多く届いている。
 しかし、当の本人は冷静だ。「酒造りは自分一人の力じゃできないし、今は上手くいっているから評価されるけど、まだまだ」
 造りたい酒のイメージは明確にある。「白ご飯は、毎日でも飽きない。そんなあたりまえにそばにある受け皿の広い酒を造りたいです。それとゼリーのような食感も欲しい。口に入れた時に丸みを帯びたものがつるんと入って、噛んで味わったら喉元にすっと降りる。そして余韻が返ってくる。そんな日本酒の王道をいく福岡の定番酒を目指しています」
 自身の手で醸す単一銘柄を極めたいと語るその心意気が頼もしい。

『白糸酒造』では、専務取締役の田中克典さん。 「将来は、シャンパンも造りたい。有言実行します」と笑顔を見せる。

家族や仲間とともに

 克典さんの妻、理恵さんとは、東京の大学時代に飲食店のバイト仲間として知り合った。当時、設計の仕事と掛け持ちしていた理恵さんは克典さんの初対面の印象を「元気な挨拶をする人でした」と言う。酒造りの修行でしばらく離れていたが克典さんが実家に戻る時、結婚を決めた。
 理恵さんにとって、克典さんの明るさや前向きな性格、自分を貫く正直さは尊敬する部分なのだとか。仲睦まじい二人である。
 最後に八代目の酒造りに話を戻そう。
 自身の酒を造る上で何を大切にしているのか、訊いてみた。「人間にできるのは、温度管理だけ。でも自分の理想通りにできたら面白くないと思う。微生物と向き合い、闘いながらできたものが果たしてどうなのか? 品質安定はもちろんですが、そういう駆け引き含めた真剣勝負が面白い。小さな蔵だからこそできる酒造りだと思います」
 しかし、一方でハネ木搾りだけでは量が造れないというジレンマも抱えている。「もっといろんな人に知ってもらわないと地酒は、残っていかないと思う。蔵の規模が小さいから売る酒がないというのは、消費者の方に失礼ですよね。常に供給できる状態を目指したい、それが目標です」
 今、新しい蔵つくりを進めている。国内唯一のハネ木搾りのある蔵を未来へと繋いでいくための新しい蔵。空間デザイナーと共に、八代目の頭にある形を具現化している真っ最中である。『白糸酒造』の次なるステージで醸される日本酒。その甘露の如き滴を早く味わいたい。

蔵のイベントで奮闘する理恵さん(左端)。
「偶然、ペアルックになってしまった」と笑う八代目夫婦。

田中克典(たなか・かつのり)略歴

昭和59年(1984) 福岡県糸島郡(現・糸島市)に生まれる
平成14年(2002) 福岡舞鶴高校 卒業
平成18年(2006) 東京農業大学 醸造科学科を卒業
平成19年(2007) 独立行政法人 酒類総合研究所に研究生として入所
平成20年(2008) 佐賀・五町田酒造の勝木慶一郎氏に師事
平成21年(2009) 実家に戻り、白糸酒造8代目を継承
         「田中六五」の初仕込み
平成27年(2015) 「田中六五」6造り目を終え、現在に至る