仕込む

日本酒 職人 田中克典「日本酒の物語」

米、麹、水。
目に見えない
微生物のはたらきに
五感を研ぎすまし、
糸島の風土と醸す。
蔵人の手で
受け継がれる
日本酒は、
古の手技がつまった
叡智の滴。

日本酒の歴史

神と酒

 一杯の酒を酌み交わす時、人は日常から離れ、心の鎧を脱ぐ。
 遥か古の祖先にとって、酒は、一体どういう目的で造られ、人々の生活に溶け込んでいったのだろう。
 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの文献の記録を辿ってみると、八百万の神と民が交信を図るために用いた神聖な媒介としての酒の姿がうかびあがってくる。当時の人々は、酒を「さかみづ」と呼んだらしい。酒を呑めば、栄えるという意味で「栄え水」が「栄え」となり、「サケ」になったとの説である。
 「サケ」以外の呼称も「キ」「ミキ」「ミワ」「ササ」「クシ」など様々ある。「クシ」の語源は“奇し”、不可思議なという意味を持つ。同時に、「クスリ(薬)」の古語でもある。ちなみに「クス」が縮まった説が濃厚な「キ」は、最も多く使用された古語である。酒に尊称を冠した「お神酒」「祝酒」などは今でも使用されているので、馴染みが深いのではないだろうか。
 古代人にとっての酒は、摩訶不思議な力を秘めた薬のようなものであったと思われる。酒の酔いがもたらす独特の浮遊感は、人間が神と繋がることができる唯一無二の状態として認識されたのではないか。酒を介して、神と人、人と人が交信し、コミュニティにおける共通概念や一体感を醸成していく。我々が酒に込める想いは、縄文の時代から変わることなく、今に受け継がれている。

蔵元杜氏 田中克典

縄文・弥生の発酵酒

 あらゆる酒の前身は発酵酒であり、ルーツは縄文期に遡る。
 昭和28年(1953)、長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群から出土した有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)の内側に、山ブドウの種子が付着していることが確認された。
 醸造研究家の加藤百一氏の論文によると、「中期縄文人は、採取した液果をそのまま有孔鍔付土器に仕込み、棒状石器で軽く圧搾した…」とある。果皮に付着した野生酵母の働きにより、古代人は、偶然の産物として酒を手にしたと考えられるだろう。
 同時期、別の遺跡から黒焦げのパンが発見されている。九州でも吉野ヶ里遺跡からジャポニカ米や器などが出土した。ヒエやアワから造る雑穀酒が推測されたが、当時まだ麹は存在しなかった。
 そこで生まれたのが、唾液によって発酵を促す口噛み酒ではなかったかというのが、加藤氏の説である。噛み手は、歯が丈夫で若い巫女だったという説も興味深い。『日本書記』によると祭りの際に神々を迎え入れ、酒を造り、お神酒をふるまうのは一家の台所を預かる「刀自(とうじ)」と呼ばれる女性の役目であった。
 現在の「杜氏」という呼び名がそこからきたとの説もあるが、文献などに記された明確な記述はない。

左・注口土器(青森県・亀ヶ岡遺跡出土)、右・有孔鍔付土器(長野県・井戸尻遺跡出土)

水稲農耕文化と酒

時代は変わり、米と水、麹という原料から造られる穀物酒は、水稲農耕文化と深い結びつきがある。酒の神は、農の神。人々は全国各地にある酒造りの神社を信仰の対象とし、朝に夕に豊穣への祈りを捧げた。神事や祭祀と酒造りが密接に結びつくのは、当然の流れであろう。
 研究者によると、水稲の伝来は、揚子江以南の江南ルートで北九州に上陸し、日本列島の南から北へと伝播していったらしい。
 しかしながら、日本の酒造りは稲と同じく大陸から伝えられたことにはならない。理由は、麹の違い。中国や韓国、チベットなどの丸い団子状の餅麹(もちこうじ)に比べ、日本の麹は米を蒸した上で麹を振りかけ、米一粒一粒にカビを繁殖させる散麹(ばらこうじ)である。日本酒のオリジナリティと源流は、豊かな四季に彩られる日本の風土だからこそ、育まれた伝統文化といえるのではないだろうか。

神の酒から、人の酒へ

 倭国(日本)の酒が文献に登場するのは、三世紀前半期の『魏志倭人伝』である。この中に日本人は酒をよく呑むという記述が見られる。また「喪主哭泣(こっきゅう)シ、他人就イテ歌舞飲酒ス」とも記述されている。葬儀の折、貯蔵しておいた米で酒を醸し、皆で呑みながら故人を偲ぶという光景は、現代にも通ずる弔いである。
 奈良に都ができ、朝廷や寺院で働く人が増えたのを機に、酒は神との交信から、人間のための酒造りへとシフトした。
 『延喜式』第四十巻によると、平安時代には宮内省に「酒造司(さけのつかさ)」が置かれ、計76人もの官人と共に「酒ヲ醸シ、醴、酢ノ事ヲ掌」とある。約15種の酒に加え、甘酒や酢も造っていたらしい。
 特筆すべきは、酒造道具の一つとして記された「糟垂袋(ぬかだれぶくろ)」という粕袋の存在である。これは醪の上搾が行なわれたことを示すものであり、技術向上がうかがえる。
 鎌倉時代に入ると、宮廷の独壇場であった日本酒造りは寺院や神社の役割になった。貴族から武士へ、それが庶民へと広まっていった寺院の酒造りとは、果たしてどんなものだったのだろうか。

清酒の原型「南都諸白(なんともろはく)」

室町時代に見られる酒を売る女 「先さけめせかし はやりて候 うすにごりも候」とあり、大衆へと広く 流通していたことが読みとれる。『七十一番職人歌合』(14〜16世紀)より。

 鎌倉時代から室町時代にかけては、僧坊酒が隆盛を誇った。
 『日本霊異記』の中巻第三十二の記述によれば、寺の一画に置かれた酒屋の売り上げによって僧坊は大変な利益を得ていたようだ。
 僧坊酒の製法を書き留めた『多聞院日記』は、奈良興福寺で記された文献である。永禄三年(1560)5月20日の記述に興味深い一文がある。「酒を煮させ樽に入れ了る、初度なり」と酒の腐食を防ぐために火入れしたとある(『日本酒ルネッサンス』小泉武夫著)。ほかにも段仕込みや濾過などの技術を酒造りに用いていたというから、その叡智たるや素晴しい。
 現在、飲まれている清酒の原型は、室町時代の濁酒から発展した奈良(南部)の寺院で造られた南都諸白である。諸白とは、白米と白麹で仕込んだ澄んだ酒のこと。その製法が大阪から江戸へと伝わり、世界に誇る日本酒造りの礎が築かれていく。種類に応じて材料の配合をかえ、三段仕込みが行なわれるようになったのも南都諸白が登場してからのことである。
 また14世紀当時は、麹を手に入れ、隠れて密造酒を造る民衆が増えてきたため、室町幕府は「麹座」を決め、麹の製造と専売権を与えることにした。麹座を拝命したのは、神人と呼ばれる神社の人で、神に仕える身として免税措置を受けていたという。

江戸の酒造り

 清酒の醸造法が完成した江戸時代。宵越しの金は持たぬという江戸町人の気風とも相まって、日本酒は隆盛を誇った。天保元年(1830)には、200軒もの酒場が生まれ、大酒呑み大会なども開催されたというから、江戸の町の活気が蘇ってくるようだ。
 当時は水車を造り、水の動力で精米し、できた酒をすぐ船に積んで運べる池田や伊丹、灘目など摂泉十二郷と呼ばれる産地が、酒造りを牽引した。なかでも灘目の酒は最上と、当時の文献に記されている。
 後期には、「下り酒」と呼ばれる高級酒が江戸へ樽廻船で運ばれた。豊臣秀吉も嗜んだという古代酒の原型、博多の練貫酒などもこの頃に造られていたようだ。
 貞享四年(1687)に記されたといわれる著者不明の酒造技術書『童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)』によると、当時の仕込みは蒸し米と麹と水を混ぜて櫂棒で摺り潰す生酛造り(きもとづくり)が主体であった。寒い時期にまとめて仕込む寒造りが定着したのも同じ頃である。低温でゆっくりと醪を発酵させていくため品質の安定はもちろん、酒蔵は農閑期の出稼ぎ先としても重宝されたようだ。こうした流れを受け、酒造りの最高責任者である杜氏を筆頭とする蔵人集団が形成されていった。
 日本人の主食である米と水、麹を原料に造られる日本酒は、世界に類を見ない複雑な発酵過程を辿る。麹によって米のデンプンを糖に換え、酵母は糖を分解してアルコールと炭酸ガスを生成する「並行複発酵」は、日本酒ならではの繊細な味わいを醸し出す。
 日本酒が海外で初めて紹介されたのは、1727年にドイツ人医師が記した『日本誌』である。マイスターの国から見ても、江戸中期の酒造技術は世界に誇る卓越した技術と大絶賛している。

居酒屋のルーツ「煮売屋」 『七癖上戸』(1810刊)より。
大釜で米を蒸し、麹室に入れる蔵人 『日本山海名産図会』(1799刊)より。
仕込み樽に水を入れ、醪を発酵させる蔵人 『日本山海名産図会』(1799刊)より。

近代、そして今

今も変わらぬハネ木搾りで酒をつくる。 『白糸酒造』(福岡県糸島市)
重石によるハネ木搾りの上搾風景 『日本山海名産図会』(1799刊)より。

 明治期の近代化の波は、酒造りにも多大な影響を及ぼした。これまで経験と勘によって成り立っていた世界に、醸造学をもとにした数値化と機械化が押しすすめられていく。
 明治37年(1904)には、国の醸造試験所が開所。速醸酵母を完成、酒米の品種改良などにより、品質向上が実現したが、大正時代の米騒動を機に、合成酒造りが余儀なくされた。
 昭和30年代の日本酒は、特級、一級、二級酒と呼ばれ、「剣菱」や「菊正宗」などが台頭、消費量も伸びた。一時期はビールに押されつつも、昭和後期には地酒ブームに火がつく。「越乃寒梅」や「浦霞」などが登場、日本酒の裾野を広げていった。
 平成には、酒の階級制度が廃止。蔵の自由な造りを後押しすると同時に、生活全般の洋風化に伴い、飲みやすい酒が好まれるようになった。杜氏集団が姿を消していったのもこの頃からだ。蔵元杜氏による酒造りは、当初、やむにやまれぬ事情から始まったわけだが、今では大学で醸造を学んだ跡継ぎが杜氏を兼任するというひとつの定型を生んでいる。
 今、日本酒人気はめざましい。蔵は各地の酒屋を通じ、消費者と直に接点を持つ機会を得た。今や日本酒は蔵人たちの“作品”であり、蔵人はアーティストとも言われる時代。「SAKE」は世界の共通言語となり、欧米では日本酒を造る外国人まで現れた。
 福岡県糸島市にも昔ながらのハネ木搾りで酒を造る若き蔵元杜氏がいる。杜氏歴半世紀の熟練杜氏から、八代目蔵元杜氏へとバトンが渡された「白糸酒造」の今を追いかけた。

田中克典(たなか・かつのり)略歴

昭和59年(1984) 福岡県糸島郡(現・糸島市)に生まれる
平成14年(2002) 福岡舞鶴高校 卒業
平成18年(2006) 東京農業大学 醸造科学科を卒業
平成19年(2007) 独立行政法人 酒類総合研究所に研究生として入所
平成20年(2008) 佐賀・五町田酒造の勝木慶一郎氏に師事
平成21年(2009) 実家に戻り、白糸酒造8代目を継承
         「田中六五」の初仕込み
平成27年(2015) 「田中六五」6造り目を終え、現在に至る