塗る

土、砂、藁、水…
どこにでもあるものを
混ぜて、捏ねて、
どこにもない
壁を塗り、
土間をつくる。

「泥工(でいく)」と呼ばれた昔から
変わることのない手の営み。
受け継ぎ、
伝える
土の技。

土の匠「左官」

四千年前の漆喰

 「国内最古の漆喰 千葉で見つかる」。新聞の社会面の小さな見出しに胸が躍った。記事を引いてみよう。
 「竪穴住居の床が漆喰で覆われた縄文時代後期初め頃(約4000年前)の集落跡が、千葉市緑区の大膳野南貝塚で見つかった。(略)直径140メートルの集落に点在する竪穴住居跡98軒のうち、33軒で炉穴の内部に白土が塗り込まれ、さらにそのうち3軒では、炉の周辺の床も厚さ1センチ程の白土で覆われていた。分析の結果、現在の漆喰と同様、消石灰が主成分で、焼いて粉末状にした貝殻を水や土と混ぜたものと判明。」(「読売新聞」平成24年3月8日付)。
 漆喰は、日本には六世紀半ば以降、仏教文化とともに伝わったとされてきた。現存する最古の漆喰としては、七世紀末から八世紀初頭の作である法隆寺金堂や高松塚古墳の壁画の下塗りに使われたものが知られている。それより二千数百年前につくられ、使われた「白い土」。専門家は、「住人が亡くなって住居を放棄する際に、炉を封じる儀式だった可能性がある」と指摘している。
 この漆喰が特異なものだったとしても、土、砂、石灰などのさまざまな材料を用いて壁や土間をつくることを広義の「左官仕事」とするなら、その起源は縄文時代にまで遡れる。足下の土を団子状に丸めたり、泥を木枠に入れて押し固め、天日で干した「泥煉瓦」を積み上げれば、壁や塀になる。遠い昔、人はみな「左官」だった。

千葉市・大膳野南貝塚で見つかった日本最古の漆喰。 写真提供/玉川文化財研究所

飛鳥の都に左官あり

 壁を塗り、仕上げる専門職としての左官が登場するのは、飛鳥時代のことである。宣化天皇三年(538)、百済の聖明王から仏像と経典が贈られて、仏教が日本に伝わる(一説に552年)。崇峻天皇元年(588)には、同じく百済から、寺工や瓦博士ら、仏殿建設の技術者が遣わされ、法興寺(後に元興寺、現在の飛鳥寺)の工事に携わっている。大陸からもたらされた先進技術によって、丹塗りの柱と瑠璃色の瓦をもつ荘厳な寺院や王宮が建てられると、その色彩に映える「白壁」が求められるようになる。壁づくりの職人「左官」はこうして誕生する。
 現存・最古の左官仕事とされるのが、推古天皇15年(607)の創建と伝わる法隆寺の金堂と五重塔である。この壁には、檜の子割材を蔓や藁縄で編んで小舞をつくり、それに荒壁、中壁、篩い土の順に土を塗り重ね、最後に白土を上塗りして仕上げるという、現在とほぼ同じ技術が使われていた。最初期の壁のこの完成度の高さから、「おそらくここでは大陸直輸入の形式が採用されたのであろう」という(山田幸一『日本の壁』)。
 奈良時代に入ると律令制が整備され、「大宝律令」(701)では、壁の材料や施工を統括する「土工司」という役所が設けられた。ここに属する「土工」たちが、壁塗りや石灰の製造など、土に関するもろもろの仕事に従事するようになる。
 「可部奴利」「泥工」などとも呼ばれた職人たちは、平安時代の中頃になると「壁塗」「壁大工」「壁工」と呼ばれるようになり、手掛ける建物も寺院や王宮から貴族の邸宅などへと広がっていった。

強い建物を求めて

 いつの時代も、建物には堅牢さと耐火性が求められる。貴重品や財産を護るためには、火災や地震は脅威だからだ。校倉や板壁の日本の倉庫に変化が見られるのは、奈良時代後期から平安時代の初め、漆喰塗りの蔵が造られるようになってからである。
 さらに時代が下り、鎌倉時代末から室町時代の初めには、「土倉」と呼ばれる土壁の蔵が登場する。土倉とはもともと、商品などを収蔵する土の倉を構えていた裕福な商人を指す言葉だった。

白い壁は高嶺の花だった

 しかし、飛鳥の昔から、白土による上塗りが施されるような建物は上級階級に限られていた。電気のない時代、光を反射して輝く白壁は、庶民にとってどんなに眩しかったことだろう。白土や漆喰塗りは高嶺の花であり、富や権威の象徴だった。一般家屋では、たとえ土壁が用いられたとしても、まだ土そのものの色肌をした荒壁が使われていたと考えられている。

城郭と茶室が変えたもの

 その壁が、桃山時代に一変する。促したのは、鉄砲の伝来だった。織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城… 防弾・防火のための厚い外壁と頑強な石垣を備え、領国支配の象徴として漆喰で塗り籠めた白堊の天守閣をもつ城が各地に出現する。慶長14年(1609)には、全国で25もの城が建設中だった。
 空前の築城ブームによって左官の技は磨かれ、職人の数も増える。同じ頃、貴重な米からつくる粥に代わって海藻から糊がつくられるようになると、漆喰の白壁は町家の建築にも普及していった。
 一方、茶の湯の発展は、城郭の対極ともいえる空間を生む。庶民の家の荒壁に想を得た草庵茶室である。風趣を求める茶人に応えて、聚落壁や大津壁などの色土や苆チラシなど、多彩な表現が編み出された。城郭と茶室は日本の建築の転換点であると同時に、左官技術史上の一大エポックともなったのである。

「左官」という職名の由来

 壁をつくる職人の名称として「左官」が定着したのは江戸時代の元禄年間(1688〜1704)である。それまで「壁大工」「壁工」と呼ばれていた職人が、なぜこう呼ばれるようになったのだろう。
 一説に、平安時代の宮中の建築に携わる部署だった「木工寮」の階級にちなむのではないかという。木工寮には「守(大工棟梁)」「介(桧皮葺き職人)」「掾(金物職人)」「属(壁塗り職人)」があった。この「属」に「さかん」という音を当て、後に「左官」の字を当てたというものだが、この説にも反論があり、はっきりとはわかっていない。

「西性寺経蔵の鏝絵」(石見銀山)。石州左官を代表する松浦栄吉の作

より多彩な表現を求めて

色土でつくった泥団子。材料を合わせ、形を整え、 磨き上げる。壁塗りと同じ技から生まれる 球体は、粘土とは思えないほど光る。

 城郭建設で全国に広まった漆喰塗り籠め仕上げは、建物の耐火性を飛躍的に向上させ、商家の土蔵や町家へと普及していった。また、侘・寂を求める趣向は、漆喰や大津壁の磨き仕上げなど、より多彩で高度な土壁表現を生み出していく。現在の土壁の塗り仕上げ工法のほとんどは、この江戸時代に完成されている。
 漆喰は、鏝絵にみられるような彫刻表現も生む。その技術は維新後の洋風建築にも柔軟に対応し、西洋伝来の石膏彫刻を巧みに組み合わせた建築装飾などに見事な華を咲かせていく。明治の洋風建築は、左官たちの卓越した技術を抜きにしては成立しなかった。

時代とともに

 関東大震災(大正12年)を契機に耐震性と耐火性が重視されるようになった日本の建築物は、太平洋戦争(昭和16〜20年)と朝鮮戦争(昭和25〜28年)を経て大きく様変わりする。
 高度経済成長の波に乗って、都市部では鉄骨造りや鉄筋コンクリート造りの建物が増え、建築の工業化と建設業者のゼネコン化が進んだ。とくに大型建築物でコンクリートを使った型枠工法やパネル工法が一般的になると、左官仕事は激減。プレハブ化が進んだ住宅の内外装工事も、パネル化、ユニット化、クロス張りが主流になる。受注システムから、手掛ける仕事の範囲、使う材料まで、左官を取り巻く状況は激変した。

土壁と左官の復権

 こうした、工期短縮と効率を最優先した社会のツケは、まず、「シックハウス症候群」というかたちで顕在化した。人間を守るべき建物が人間の健康を害する、この現代病が社会問題になったとき、注目を集めたのが、漆喰や珪藻土を使った壁がもつ有害物質の吸着・分解力だった。
 環境意識の高まりは、調湿・調温効果に優れ、最終的には自然に還る土壁と、左官仕事の再発見につながっていく。久住章氏をはじめとする左官たちの独創的な手仕事から、土そのものの力や、左官という仕事の魅力に気付かされた人も多いだろう。
 「冬の時代」から「光の時代」へ。左官仕事の復権は、効率至上で突っ走ってきた戦後日本と、便利さ、快適さを物差しとしてきた日本人への静かな異議申し立てのようにも思える。

荒木富士男(あらき・ふじお)略歴

昭和29年(1954) 1月8日、福岡県大牟田市に生まれる
昭和46年(1971) 早田組に入社。
昭和51年(1976) 兄が荒木業務店を設立。弟とともに加わる
昭和59年(1984) 「第22回全国左官技能競技大会」優勝
昭和60年(1985) 久住章氏が率いる左官集団「水土クラフトユニオン」「花咲か団」に参加。
         「桂離宮」(京都市)、「ヴィラ・デル・ソル(旧南葵文庫旧館)」(静岡県熱海市)修復工事、
         「ホテル川久」(和歌山県白浜町)の建築工事等に携わる
平成63年(1988) 荒木左官店を設立
平成 7年(1995) 福岡県左官業組合連合会技能技術部長に就任
平成 8年(1996) 富士工舎を設立
平成16年(2004) 「北九州市旧古河鉱業若松ビル(国登録有形文化財)」保存改修工事
平成17年(2005) 「旧福岡県公会堂貴賓館(重要文化財)」内外装復旧修理工事
         「筥崎宮楼門」改修工事
平成18年(2006) 「松風庵」保存改修工事
平成19年(2007) 「福岡城下之橋御門(国史跡)」復原工事
平成21年(2009) 優秀施工者(建設マスター)として国土交通大臣顕彰を受ける
         「第3回ものづくり日本大賞」内閣総理大臣賞を左官工として初受賞する
平成22年(2010) 「旧鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂」再生復元工事
平成23年(2011) 「見仏山 浄土寺(国登録有形文化財)」保存修理工事
         左官基幹技能士、一級技能士、職業訓練指導員、
         二級建築施工管理技師