細胞が受け継ぐ
伝統の技

博多曲物 柴田玉樹 「職人ストーリー」

博多馬出

 「折敷に三方はよござっしょう…」かつて博多の町では、師走も半ばを過ぎると、曲物売りの触れ声が響いたという。声の主は馬出(まいだし)町から出向いて来る人々だった。
 元禄年間(1688〜1703)、福岡藩の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)は、『筑前国續風土記』に「博多馬出町」を「箱崎八幡宮の西にあり。町の長二町五十四間あり。(略)此所(ここ)を馬出と号せしは、むかし八幡宮の神輿(みこし)、博多夷社(えびすしゃ)迄下向(げこう)し玉ふ時、此所より供奉の人の乗れる馬を出しける故に名とせり」「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に を作る。皆羅漢松(まき)を用ゆ」と記している。
 その博多馬出の曲物の縁起は、神功(じんぐう)皇后の朝鮮出兵まで遡る。身重の身をおして西下した皇后は、帰国の途中、筑紫国蚊田(かだ)(現在の福岡県宇美町)で後に応神(おうじん)天皇となる皇子をお産みになり、胞衣(えな)(へそのお)を木筥(きばこ)に収めて、箱崎の松林に埋められた。その筥が曲物だったという。
 「筥」は元々、米などを入れる竹製の丸いハコを意味し、四角いハコである「筐(きょう)」や、荷車につける「箱」と区別されていた。そこから後にこの地に建立された社に「筥崎」という名がついたとも、博多曲物の端緒は延長元年(923)に造営された筥崎宮の柿葺き(こけらぶき)の薄板をつくる技術だったともいう。真偽のほどは不明だが、筥崎宮と博多曲物の関わりをうかがわせて興味深い。
 筥崎宮の神人(じにん)であった馬出の人々は、筥崎宮に奉仕する家筋を誇りとし、代々、神前に供える曲物の祭具づくりと社寺の屋根づくりを家業とした。「天気のときは屋根を葺き、雨の日は曲物をつくった」と筥崎宮の宮史にも記録されている。
 時代が下り、技術が伝えられるうち、曲物づくりは奉祭品から一般の儀式用品へ、さらに、弁当箱、飯櫃、寿司桶などの日用品や博多独特の「ポッポーお膳」へと広がっていった。

筥崎宮が記した柴田家の由緒書
筥崎宮

家業400年

 曲物は永い間、庶民の暮らしになくてはならない用具だった。昭和の初めまでの馬出は、古い街道の両側に町家が連なり、柴田、西田、東郷など二十数軒が、家族で睦まじく曲物をつくっていたという。その様子を“日本の民芸の父”といわれる柳宗悦(やなぎむねよし)は、「工芸を愛するものに、かかる町の風情は忘れられない活きた仕事場で凡てが動いている」と述べている。なかでも、柴田玉樹の家は、当代で十八代を重ねてきた。
 昭和四年(1929)に柴田家に宛てて筥崎宮が証した由緒書には、柴田家が筥崎宮の餝座(かざりや)(飾りつけの専門職)三家のひとつであり、代々、神輿の餝役や末社の供具の取次役を果たしてきたこと、後陽成(ごようせい)天皇の御世だった文禄元年(1592)以来、筑前名島城主であった小早川隆景(こばやかわたかかげ)・秀秋(ひであき)父子や、黒田長政に始まる代々の筑前国主から、江戸時代を通じて神領を下賜されてきたこと、さらに、明治六年(1873)に太政官令によって神宮の世襲が禁じられ、それに伴って筥崎宮の餝座の職を解かれた後の明治二十年(1887)、十四代吉右衛門(きちえもん)の願い出によって復職したことが述べられている。
 柴田家は、豊臣秀吉が権勢を誇り、出雲阿国(いずものおくに)が四条河原で歌舞伎を創始したころから、筥崎宮の家筋、柴田本家としての誇りをもって、その技を守り続けてきたのである。「企業は平均寿命三十年」といわれ、吸収合併や業態変更が珍しくない現代、ひとつの家に流れた400年という時間には、他人には計り知れない遥かさと重さがある。

父・玉樹と曾祖父・庄吉

 柴田家は初代吉右衛門以来、代々長男が後を継ぎ、吉右衛門、伊右衛門(いえもん)の名前を順に名乗ってきた。ところが、十七代を継ぐはずだった伊右衛門が戦争で亡くなったため、次男の玉樹(十七代)が後を継ぐことになる。昭和七年(1932)生まれの玉樹が本格的に曲物づくりの道に入ったのは二十代の半ばだった。
 十六代も早くに亡くなったため、十七代は曲物づくりを祖父・庄吉(昭和31年没)に学んでいる。「木取りも曲げも、そばで見て覚えるしかない」スタートだった。
 同じころ、柳宗悦とバーナード・リーチが工芸の調査のために小鹿田・小石原を訪れた折、柴田玉樹商店に立ち寄ったことがある。柴田家手づくりの寿司に舌鼓を打ったリーチは、そばにあった折敷を取り上げ、馬出という地名にちなんだのか、元気よく跳ねている馬を描いて満悦だったという。
 つくれば飛ぶように売れた時代、父は数をこなすことで腕を磨く。柳宗悦がその美を見抜いた「百合(ゆり)」や飯櫃で知られる職人となり、昭和五十六年(1981)、福岡市の無形文化財「博多曲物」の技術保持者に認定される。これを機に「馬出の曲物」とか「筥崎の曲物」と呼ばれていた名称も「博多曲物」として定着。さらに、蓋置と菓子器が表千家の全国大会の記念品として使われたことにより、一級の茶道具として認められ、工芸品として全国に知られるようになるのである。

仕事中の父・十七代玉樹(1932〜1995)昭和53年ごろの撮影。
バーナード・リーチが描いた馬の絵。「そげな偉か人とは知らんかった」と父は語っていた。

父の死

 十八代柴田玉樹(本名・真理子)は、そんな曲物師の次女として生まれ、杉や檜の香りのする作業場で遊びながら育った。
 「女は嫁に行くまで手伝うもの」と、小学生のときから、姉の妙子といっしょに仕事場の掃除や簡単な作業を仕込まれた。18歳で母を亡くしてからは、家事もこなしながら父の傍らで曲物をつくり、絵付けも任された。曲物づくりは家内手工業。「昔から、曲げは男、綴じや絵付けは女の仕事。好きも嫌いもない。見よう見真似で手伝ったし、それが普通だった」
 結婚後も「父を助けなくては」と作業場に通い、会社を切り盛りし、体調のすぐれない父に代わって曲物づくりに励んだ。
 頑固でわがまま。家のことはすべて妻まかせ。仕事だけに打ち込み、夕方5時にはぴしゃっと仕事を終えて近所の酒屋で一杯・・・絵に描いたような職人だった父は、肺がんを患い、平成7年(1995)、64歳で急逝する。知人の保証人になり、多額の負債を背負って会社が倒産、家も仕事場も失った心労がたたったのだろう。規模を縮小しても曲物づくりだけは続けようとしていた矢先だった。

使い込まれた道具箱

マイナスからの出発

馬出時代の柴田玉樹商店。この奥に作業場があった。
15代庄吉作と思われる弁当箱(手前2点)と、米櫃から米をすくう用具「カスリ」。丸い穴に指を入れて使った。 撮影協力/「博多町家」ふるさと館

 あっという間に父が亡くなったとき、代々続く家業を守り継ごうと決意する。だがそのとき、倒産したことで社会的な信用を失った家は、どん底状態、自身は長男を産んだばかり。女であることも手伝って、材料の仕入れもままならなかった。
 じつは一度、生前の父に「私がやろうか」と言ったことがあった。返事は「男(長男)がおるとに、男ば差し置いてなんばいいようとか。お前は嫁に行くっちゃろうが」だった。25歳の正月、集まった親戚の前で「後ば継ごうかねぇ」と言ったときにも、「女になんばできるか、ってぼろくそ言われた」のだという。しかし、いずれ継いでからと、手伝いの中であまり教えられていなかった長男は、別の道を選んだ。
 「ここで止めるわけにはいかない」。一度は揺らいだ決意を固めさせたのは、十七代続いてきた家業の重さと、20歳のころから本格的に修業してきたという自負だった。
 父の四十九日の法要で出した一輪差しが、親戚の目を変える。「これだけ作りきるならよか」。柴田家の十八代として認められた瞬間だった。
 福岡空港にほど近い志免町に工房を移し、軒に筥崎宮飾職を示す注連縄(しめなわ)を巡らして、曲物と向かいあう日々が始まる。
 「横で黙って見ているだけ。しかも、何も教えてくれないのに、失敗すれば怒る」父から教わっていたのは、木の表裏の見分け方だけだった。「私に継がせるつもりがなかったから、教える必要もなかったはず」だからである。
 木目を見ることができるようになるだけでも十年はかかる、という職人修業。「何もできんかったら仕方ないけど、つくりきるとに…と思ったから継げた仕事。まあ、好きだったんやろうねぇ」
 一日一日、ひとつひとつ、手がコツを覚え、自然に動くようになるまで、どれくらいの時間が必要だったろう。数をこなすことで腕を磨いていったのは、父と同じだった。
 それから14年。日本民芸展への入賞や、京都の漆絵作家との共同制作、展示会など意欲的な活動を続け、平成19年(2007)に「玉樹」を襲名した柴田家十八代の周囲には、「女だから」という声はもうない。
 近ごろ、仕事中の姿が父に似てきたと言われる。「やっぱり親子やけんねぇ」と笑う。

急がず、逆らわず

馬出時代から掲げている店の看板
福岡市の東、篠栗町と須恵町の境に位置する若杉山。博多曲物は、この地の杉材を使って作られ始めた。

 木を薄い板にし、熱湯で煮て柔らかくして曲げ、乾燥させて桜の皮で綴じ合わせる。曲物の工程は至って単純だ。しかし、だからこそ、押えるべきところを押えないと、文字通り、売り物にならない。一工程一工程、手も気も抜けないのが曲物づくりなのである。その実際を工房に訪ねた。
 博多曲物の材は、目が詰まり、まっすぐに伸びた「無節柾目(むぶしまさめ)」が約束事。材を見極める目は必須である。
 木は、割って見れば、育った土地の陽当たりのよし悪しや、こまめに枝打ちされたか、手を掛けて育てられたかといったことまでわかるという。昔はどんな木工品でも近隣の材を使った。博多曲物の場合は、若杉山の杉と檜だったが、大木が希少になった現在では、主に秋田産のものを使う。
 そうして取り寄せた原材が、すぐに使えるわけではない。最低でも一年は自然乾燥させる。後で煮るから構わないだろうと素人には思えるが、一度きちんと乾燥させないと出来上がりの寸法が違ってくるという。ここまでの時間を経て、ようやく手の仕事が始まる。
 おおまかに製材し、荒削りしてから、つくるものに応じた厚さにするのだが、このとき、決して木に逆らってはいけないのだという。削りながら、色や木目の流れを読み、その材のどこをどう使うかを決めていく。板を煮るとき、湯をつねに循環させて、材から出たアクが再び木地に戻らないようにするのもポイントだ。
 柔らかくした木は、いち、にの、さんで曲げ、巻木を外したら「ふわっと力を入れて」かたちを整える。流れるように続く一連の作業は、まるで木をあやしているようだ。
 父が元気なとき、お櫃を一度に50個つくったことがある。丸くつくったつもりのそれは、できてみれば全部、楕円だった。それを見て、父はぼそりと「きれいにならんめえが」と言ったという。いま同じものをつくったら、合格点をもらえるだろうか。それとも… 永く続く「家業」とは、そこにいてもいなくても、つねに父や祖父の背中を見ながら仕事をすること、なのかもしれない。 

右から、父・玉樹、弟・佳明、姉・妙子、18代・玉樹

昭和39年ごろの18代・玉樹と弟。右は祖母・ケイ。仕事場が遊び場だった。

伝統を継ぐ者として

 曲物の最盛期は大正から昭和の初めにかけてだった。弁当箱、飯櫃、寿司桶・・・ 父の代の製品には、米櫃から米をすくう「かすり」や、仏壇に供える飯器「御合(おごう)」、砂糖を入れる「砂糖曲(さとうがが)」、祝儀の際に鯛を入れる「柾板春寒(まさいたしゅんかん)」などの名前も見える。当時は駅弁の折箱もつくっていた。
 戦後、その状況は激変する。プラスチック製品と炊飯ジャーの登場によって、曲物は容器としての用途をほとんど失ったといっていい。曲物を「まげもん」と呼ぶ博多っ子もめっきり減り、茶道具と、やっぱりこれでなくてはという愛着に支えられて、いのちをつないできた。
 その空気が少しずつだが変わってきている。例えば、最近、市内の幼稚園から園児用の弁当箱の注文を受けた。小さなころから「本物」に触れさせたいから、という。どんな大きさがいいだろう。子どもたちが手に持ったときのことを考えながら底板と蓋のサイズを思案する作業は、手間がかかるが楽しいものだった。
 塗りを施さない博多曲物は軽くて通気性がよく、ご飯が傷みにくい。杉そのものにも殺菌効果があるといわれ、優れた機能性で弁当箱として永く愛されてきた。
 だがその前に、「小さな子どもたちに、素木の木肌の手触りや、ほのかな木の香りの心地よさを知ってほしい」と思う。小さなころから身近にあってこそ、曲物への愛着が育つと思うからだ。
 長くつくり継がれてきた博多独特の「ポッポーお膳」もそうだ。博多の子どもは、このお膳の前に座ることで、七五三や正月などの“特別な日”の喜びや、自分が大切な存在であることを、知らず知らず教えられて育ったものだ。松竹梅、鶴と亀。先代までは、約束の絵柄を泥絵具で描いたが、博多人形師に教わって、発色と色もちがいいアクリル絵具に変えた。できるだけ長く使ってほしいからである。
 博多曲物の魅力を少しでも広く伝えられたら。父が任されていた「『博多町家』」ふるさと館」での実演を引き継いだのも、そんな思いからだ。全国各地から訪れる観光客に、日用の道具であること、丁寧に使えば10年20年はもつことを博多弁で語っている。

「僕たちが後を継ぐ」と頼もしい二人の息子(佳吾・中、昌吾・右)自分がそうだったように、仕事場で遊びながら育ってきた。
「柴田家が代々住み継いだ馬出に工房を戻したい」。夢に向かって、日々仕事に心をこめる。

次の代に手渡すまで

 板を削り、曲げる母の傍らでは、中学二年になった昌吾と小学三年生の佳吾が磨きの作業を手伝っていた。
 二人とも、母と同じように作業場を遊び場に育った。昌吾は「絵が得意な佳吾にデザインを担当させて、僕が曲物をつくる」と言う。「急がなくてもいいから、ゆっくり、丁寧にね」。二人の手の動きを見ながら掛ける声は、曲物師ではなく、母のものだった。
 「この子たちのためにもきちんとした仕事をしなくては。基本を守りながら、自分らしさや新しさを加えて、若い世代にも親しんでもらえる用の具をつくっていきたい」。使って、洗って、使って…曲物はそうしているうちに桜の皮紐が締まり、独特の光沢が出て手になじんでくる。「飯櫃に入れるとご飯の味が違うと言われると、やっぱり嬉しい。曾祖父の庄吉がつくった百合をいまも使ってくださっているお宅もあります。自分がつくった曲物を、そんなふうに味が出るまで使いこんでもらえたら、職人として本望」。願いをこめて、今日も木と向かいあう。

二百年かけて育った木から
いのちをもらい、
四百年の技で
かたちを与える。
「使って喜ばれるものを」
職人の思いはいつの時代も変わらない

柴田玉樹(しばた・たまき)略歴

昭和36年(1961) 福岡市東区馬出に生まれる
昭和56年(1981) 筑紫女学園短期大学卒業
昭和58年(1983) 本格的に曲物づくりの修業を始める
平成 7年(1995) 17代柴田玉樹(父)の死去に伴い、家業を継ぐ
平成19年(2007) 18代柴田玉樹を襲名
東京、京都、福岡など各地で伝統工芸展等に出品を重ねるほか、
「『博多町家』ふるさと館」で毎週月曜日、実演を行っている。
博多伝統手職人連盟会員、民芸協会会員