曲げる

博多曲物 柴田玉樹 「曲物の物語」

薄く削がれた杉の
まっすぐな木目、
素木の材そのものが生みだす
つややかな木肌。
博多曲物
清らかなその姿は
神への奉祭具だったという。

森と木の国

数万年の昔から

 町なかで暮らしていると実感が薄いが、日本は「森の国」であり、「木の国」である。空から眺めれば、国土の大部分は森林に覆われ、その間を短い川が細い筋を描いて海に注いでいるのが分かる。
 太古の昔から、森は人間の生活と密接に関わってきた。否、森こそが人間を生かしてきた。私たちの祖先は、木の実を拾って命をつなぎ、木を伐り、削って、道具をつくり、家を建てた。それは、この列島に人が住み始めた数万年前から変わらず続く営みである。
 温暖な日本には数百種の樹木が育つ。柔らかい木、堅い木、軽い木、重い木、白い木、赤い木、黒い木… 先人たちは、それぞれの性質の違いを見極め、適材適所に使い分けてきた。
 例えば、浮世絵の版木は、堅いが彫りやすく、狂いの少ない山桜が使われてきたし、箪笥には桐や水目桜、刀の鞘には朴、印材には桂、櫛には柘植などなど。さらには、防虫効果を見いだして樟脳を作り、種々の木枝を煮出して布を染め、薬としても用いた。柿のように、そのえぐみさえ柿渋として利用してきたものもある。驚くほかない知恵である。

曲物 十八代柴田玉樹

木と人の暮らし

 それもこれも、木が身近で豊かだったからだ。『木の文化』(小原二郎著)によれば、『古事記』『日本書紀』には、檜、松、杉、樟など、五十三種におよぶ樹木が記されているという。
 なかでも興味深いのは、素盞嗚尊(スサノオノミコト)の説話である。尊は「韓郷(からくに)の島には金銀(こがねしろがね)がある。もしわが子の治める国に船がなかったらよくないだろう」と仰せられ、髯を抜いて放つと杉に、胸の毛を抜いて放つと檜に、尻の毛は槙(まきのき)に、眉の毛は樟になった。そして、その用途を決められ、「杉と樟は船をつくるのに、檜は宮をつくる木によい。槙は棺材によい。そのためのたくさんの木の種子を皆播こう」と言われたという。また、尊が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の背中には松と柏が(『古事記』)、体には檜と杉(『日本書紀』)が生えていたと書かれ、これは植林を意味するとも考えられている。
 太古以来、杉や檜が建築用材としてもっともよく使われてきたことや、尊の言葉通り、木肌が美しい檜が神社の社殿に用いられ、樟が古墳時代の船の用材として多用されたことは、考古学的にも実証されている。
 また、高野槙(こうやまき)が、畿内の古墳だけでなく、遠く朝鮮半島の扶余にある百済王の棺材として使われたことも明らかになっている。高野槙は日本にしか産しない。となれば、用材として日本から運ばれたと考えられるのである。
 西洋では黒檀や樫など、見た目に美しい木が好まれてきたが、私たちの祖先は、杉や檜など、ごく普通に茂る木に優れた質を見いだし、使ってきた。高野槙を杉や檜と見分けることは、よほど木を熟知し、扱い慣れていないと難しいという。日本人がいかに木と親しく暮らしてきたかがうかがわれる。

曲物の歴史

木工七職

 「木工七職」という語がある。彫物(鑿や小刀などで木を彫ってつくる。仏像、人物像、装飾彫刻など)、指物(板を組み立て、ほぞでつなぎ合わせてつくる。組物(くみもの)ともいう)、刳物(手斧(ちょうな)などで木を刳ってつくる。木鉢や盆など)、挽物(ロクロで木を挽いてつくる。椀や皿、茶櫃など)、篩物(たがもの)(短冊形の側板を円筒形に並べ、竹などの篩で締め、底板をはめ込んでつくる。桶や樽など。結物ともいう)、編物(竹や柳などを編んでつくる。笊(ざる)や籠、網代(あじろ)、行李(こうり)など)、曲物を指す。いずれも、日本人の生活と深く関わってきた木の加工品である。このなかで、刳物に次いで古いと考えられているのが、曲物である。
 曲物は、古くは綰物、捲物とも書いた。「綰(わん)」は、つなぐ、結ぶ、丸く束ねる、輪にするなどの意味をもつ語であり、「捲」には、ぐるぐると巻く、丸く巻きつけるといった意味がある。また、「檜物(ひもの)」「わっぱ」「めんぱ」などとも呼ばれてきた。
 地域や時代によっては檜葉、松、蝦夷松、唐松)、樅なども用いられたが、今日、私たちが「曲物」と聞いてイメージするのは、「杉や檜の柾目(まさめ)の薄板を曲げ、桜の皮で綴じ、底板をつけた器や道具」だろう。

曲物の始まり

 その曲物がいつごろからあったのかは、じつはよくわかっていない。古墳時代につくられていたことは、各地に出土例があることから確実だが、弥生時代晩期ごろまで遡るという説もあり、平成8年(1996)9月、秋田で縄文時代のものではないかという遺物が発見され、研究者の注目をあつめた。
 薄板が用いられる以前の曲物は、柔らかい欅や樺の樹皮を円形や楕円形に曲げ、端を樹皮で綴じて底板をつけたものだったという。また、曲物は中国で始まり、漢の時代に漆器の木地として用いられたものが日本に伝わったという説もあるが、これも詳しくはわかっていない。

佐賀県唐津市の中原遺跡の出土品。直径14〜17cm、高さは4〜5.5cm写真提供/佐賀県社会教育・文化財課

多種多様な用途

 わかっていないながら、曲物は庶民の暮らしに広く用いられてきた。その存在があまりに当たり前だったから、誰も由来や来歴など気にも留めなかったのではないか、とさえ思えるほどだ。他の木製の加工品に比べてつくりやすく、材料も身近にあり、大小、円形、楕円、方形など、サイズもかたちもいかようにもつくれた曲物は、桶や樽が広く使われるようになる近世まで、いわゆる「容器」の大部分を占めていたのである。
 遺跡の出土品や、いまに伝わる絵巻物から、その主な用途を見てみよう。
 まずは、水まわりの道具である。奈良県明日香村の七世紀後半の遺跡や平城京跡などからは、曲物の井戸枠が出土している。井戸枠は時代が下るにつれて出土数も増え、地域も広がり、組み方も多様になっていく。水桶や釣瓶(つるべ)、盥(たらい)、柄杓(ひしゃく)なども、その多くは曲物でつくられていた。
 飲食の道具としても、曲物は欠かせないものだった。弁当箱や飯櫃から、味噌など比較的水分の少ない調味料や、漬物、菓子などさまざまな食料の容れ物として、また、小麦や蕎麦などの粉物の分別に欠かせなかった篩(ふるい)や、蒸籠(せいろ)の枠にも曲物が見られるし、汁や湯、酒などの液体を注ぐための器(提子(ひさご)・湯桶(ゆとう))には、漆を塗った曲物が活躍した。今日の土瓶や急須は、この湯桶が焼物の技術を得て発展したものだという。
 食以外での用途も多かった。『信貴山縁起絵巻(しぎざんえんぎえまき)』をはじめとする多くの絵巻物に描かれているのが、麻などを紡いだ繊維を入れる苧桶(おぼけ)である。その繊維を糸に撚る糸車の枠、冠などの被り物を収める容器、行灯や提灯の上下の枠、火桶(火鉢)から物を運搬する道具まで、さまざまな曲物が日常生活に用いられた。

神事・祭祀の道具としての曲物 

撮影協力:宗像大社
撮影協力:宗像大社

 用途として見逃せないのが、神事や正月、婚礼など「ハレ」の道具としての曲物である。つくりやすさと素木の清浄感が、霊器にふさわしいと考えられたことは想像に難くない。伊勢神宮をはじめ、鏡を御神体とする神社は各地に多い。人目に触れることは稀だが、その鏡を納める神聖な筥(はこ)の多くは曲物である。
 私たちがよく知るのは、三方と柄杓だろう。三方は、方形の折敷(おしき)を台に載せたもので、台の三方に穴があいていることから、この名がある。古代には食事用の台だったというが、神饌(しんせん)(神様に捧げられる食べ物)を盛ったり納めたりする容器として、また、一般家庭でも正月に鏡餅を載せる台としてなじみ深い。
 水を汲む道具として欠かせない柄杓は、いまでも神社や寺院の手水舎で健在だが、元々は霊の容器として特別な意味をもつものだった。四国や西国の霊場を巡るお遍路さんや、江戸時代に大流行した伊勢参りの人々が、必ずといっていいほど曲物柄杓を携えて旅したのは、道中、喉の渇きを癒やしたり、食べ物の施しを受けとるためだけでなく、そこに神霊が宿ると信じられたからでもあった。

新しい時代に

 古墳時代にはすでに製法が確立していたといわれる曲物は、中世後期以降、「檜物師」と呼ばれた専門の職人たちによって日本の至るところで作られていた。それほどに生活必需品だった曲物は、明治維新とともに西洋からもたらされたブリキや銅版、アルミニウムなどによって影が薄れてゆく。いまではレトロチックなブリキのバケツは、当時、ぴっかぴかの“文明の利器”だったのだ。さらに、第二次大戦後に大量に出回ったプラスチック製品や電化製品によって、私たちの日常生活から多くの曲物が姿を消していった。わっぱと呼ばれた弁当箱などは、その典型だろう。
 途絶える寸前だったその風向きは、昭和五十年前後の石油ショックとその後の不況を乗り越えたころから変化を見せ始める。♪の〜んびり行こうよ俺たちは あせってみたって同じこと・・・そんなCMソングが流行ったころだ。くらしに潤いとゆとりを求める心が自然素材へと向かい、伝統工芸の魅力が“再発見”されるにつれて、曲物も息を吹き返すのである。
 現在、北は青森から南は宮崎まで、曲物を特産とする地は全国に十数ヵ所を数える。また、照明器具などのインテリア製品としての曲物づくりをめざす作家たちの動きもある。千年を超えて作り継がれてきた日本の曲物の歴史に、新しい風が吹き始めている。

柴田玉樹(しばた・たまき)略歴

昭和36年(1961) 福岡市東区馬出に生まれる
昭和56年(1981) 筑紫女学園短期大学卒業
昭和58年(1983) 本格的に曲物づくりの修業を始める
平成 7年(1995) 17代柴田玉樹(父)の死去に伴い、家業を継ぐ
平成19年(2007) 18代柴田玉樹を襲名
東京、京都、福岡など各地で伝統工芸展等に出品を重ねるほか、
「『博多町家』ふるさと館」で毎週月曜日、実演を行っている。
博多伝統手職人連盟会員、民芸協会会員