大川組子の
継承と
興隆を夢見て

組子 木下正人 「職人ストーリー」

榎津江湖から生まれた木工業

 紅の夕陽が、空に向かって垂直に伸びる橋桁の間からぽっかりと顔をのぞかせ、筑後川を照らしている。福岡県大川市と佐賀県佐賀市を結ぶ鉄道用可動式橋梁ができたのは、昭和10年(1935)のこと。人々から「東洋一の可動式鉄橋」と親しまれた「筑後川昇開橋」は、パリ万国博覧会で模型が紹介されるなど、大川市のシンボルとして変わりゆく町を見つめてきた。
 その真っ赤な橋がかかる筑後川左岸に広がる筑後川下流の沖積地帯には、有明海の潮汐によって、感潮河川である「江湖」が出現。これについて環境問題評論家の富山和子さんは、こう述べている。「海の潮が侵入しては、また引いていく、いわば海からの水の道」(『水の文化史』)。
 この榎津江湖(花宗川)の水運により榎津は、江戸時代には漁業、河川港、造船基地として栄えた。嘉永七年(1854)、榎津町には船大工101名、大工41名、木挽15名、桶師9名が従事していたという。天文5年(1536)、榎津本町に願蓮寺を創建した榎津久米之介を、大川木工業の祖とする説も願蓮寺の記録に残っているが、正確なところは分からない。当時、天草郡志岐の家臣が榎津に移り住み、船大工を広めたという説も志岐家の家伝にあった。
 大川の風物詩、筑後川の筏流しは、天和年間(1681〜84)、日田の相良吉三郎によって始まり、榎津は日田木材の集散地としての役割を担った。昭和初期まで、日田木材の多くは筏で運ばれたが、昭和27年(1952)の夜明ダムの建設に伴い、その幕を閉じた。文化9年(1812)には、田ノ上嘉作という家大工が榎津指物に改良を加え、今の大川家具の礎を築いたとされる。
 船大工集団は、船だけでなく箪笥、家、建具など注文に応じて何でも作った。江戸期、文化13年の「伝習館文書」によると、榎津町は、灌漑用の水車、建具、細工物の木工製品を製造しており、隣県にも移出されていたようだ。船大工は榎津にしかいなかったため、他県から注文が絶えなかったという。ただし、精巧な細工を施した大川組子となると、経済的に発展した明治期頃から普及し始めたのではないかと推測される。

「筑後川昇開橋」。平成15(2003)、日本に現存する最古の可動式昇開橋として国指定重要文化財に認定された。

大川市の木工業の発展と今

昭和24年(1949)から始まった「大川木工まつり」は毎年10月に開催。建具製作体験や新作家具の展示などが催される。
昭和初期の柳川領宿場町の小保。船大工の作業場。
昭和初期の筑後川水系・花宗川の筏流し。

 船、水車を経て、幕末から一般家具へ。多様化する注文により、職人技術も次第に細分化されていったのではないだろうか。
 昭和24年(1949)、大川市は「重要木工集団産地」の指定を国から受け、同年に「第一回大川木工祭」を開催した。昭和30年(1955)には、デザイナーの河内諒による、金具や引き手をつけないシンプルなタンスが「西日本物産展」で最高賞を受賞。木工の機械化の進展と共に、このタンスは「大川調」として一躍有名になり、ベビーブーム世代の需要も伴い、昭和40年代は、婚礼家具が売れに売れた。
 しかし、平成に入ると、婚礼家具の市場は冷え込み、平成20年には、生産高は最盛期の三分の一にまで落ち込んだ。そうした現状を受け、平成17年(2005)、大川市は企業や大学、デザイナーと職人による産官学民連携の取組みをスタート。日本の伝統技術とセンスを踏襲した「さじかげんの心地良さ」を海外に提案する大川の地域ブランド、「SAJICA」を立ち上げるなど新たな挑戦を続けている。

九州唯一の組子屋として

 46インチのジーンズにTシャツ。ダルマのような大きな眼はギョロリと鋭く、気合いが入っている。初めて工場を訪れた時、挨拶を交わすなり、たちまちその両眼がマッチ棒のように細くなり、笑顔がこぼれた。「ぶっとい手ですけど、意外と上手に使ってるでしょ? 私、生命線も長いっすよ」。光が透けるほど薄い木片のパーツをひょいひょいと器用に組みながら豪快に笑うのは、「木下木芸」の木下正人さんだ。組子もやる建具屋を除けば、1年365日、組子だけを製作する専門は九州でも唯一ここだけ。まして腕のいい組子職人となると、西日本は極端に少ないため、京都や大阪、横浜からの受注も多い。横浜の異人館の欄間、京都「南座」のパーテーション、岡山市内のホテルの自動ドア、福岡県は太宰府の結婚式場、「大川市セントラルホテル」や料亭など木下さんが手がける組子は、全国の錚々たる場所に納められている

栃木県鹿沼市の丁稚奉公時代

 「木下建具」の次男として生まれ育った木下さんは、大川工業高校卒業後、建具の町、鹿沼市へ丁稚奉公を志願した。鹿沼組子といえば、江戸時代に作られた彫刻屋台などで知られる木工業の一大産地。幼少期から建具屋になると心に決めていた木下さんが、初めてその鹿沼組子を間近で見た時の衝撃ときたら。「最初は、もう驚きだけでした。こんなの神様が作るんかなという感じ」。しかし、意を決して修行を申し込んだ組子屋から、「鉋も立てきらん、建具もわからん人間は扱いきらん」と門前払いされた。結局、雪見障子を作るまでの技術を建具屋で学んだ2年後、晴れて組子屋の修行が許された。
 建具屋時代から、学ぶことにかけては貪欲だった。どうしても分からない事がある時は、酒を持って職人の家に遊びに行った。「それができる環境を自分で作る、それも仕事のうち。どうすれば気持ち良く仕事を教えてもらえるか、いっつも考えてました」。
 とはいえ、「建具職人が組子屋に来たら、赤ちゃんと一緒、それくらい技術が違う」組子職人の修行は壮絶だった。当時、親方は28歳、木下さんが20歳という血気盛んな頃。1ヶ月の給料は、わずか1万円。プレハブの粗末な工場で朝から晩まで働いたら、親方の家で夕食と風呂。夜は工場に戻り、隅に布団を敷いて横になる。鹿沼市は、夏は酷暑で、冬は零下六度まで冷え込む盆地。毎年冬になると、親指のあかぎれが両側からつながり、指の腹が裂けたという。「よく頑張ったなと思います、正直。でも辞める時に腕を置いて行けとは言われないわけだから、感謝です」。多感な年代を過ごした鹿沼市は、木下さんにとって第二の故郷である。

建具でも組子でも、やっぱ、人の作りきらんものを作って欲しい。大事なのは、人との出会い」が父、久馬人さんの口癖。
伝統工芸が大好きな兄、久雄さんの家で。正人さんが製作した組子の引き戸を背に。

帰省、そして独立へ

 半ズボンに前掛け、白いロングソックス。75歳にして現役の父、久馬人さんの装いは洒落ている。大阪の万国博覧会の頃、「建具は作りきれんごと」仕事があり、「筍ん立つほど新しい家の建った」。
 中学時代から柔道が強かった木下さんに、父は「警察官になれと薦めた」が、息子は迷わずものづくりの道へ。「正人は数学のできよったけん、組子に進んで正解やった。組子と建具、兄弟でぴしゃーっと二つ線路ば引っ張ったもん」と父は顔をほころばす。二代目を継いだ五歳違いの兄、久雄さんは、福岡県建具組合の理事も務める。
 もちろん、親子間の衝突がなかったわけではない。修業先から戻った木下さんに、建具屋の隣で組子をさせようとした父とは大喧嘩した。「当然、断りました。家業の世話にはならないという約束で修業に出たわけだから」。しかし、26歳の若者には信用も金もない。木下さんは忸怩たる思いで父に頭を下げ、借金の保証人を頼んだ。二千万円で工場を借りて機械を揃え、鉋一つから自力で揃えながら、夢中で組子に明け暮れる日々。仕事しながら学べることが、ただただ嬉しかった。36歳で、妻の三智子さんと出会い、結婚。「これが俺の仕事」と組子細工を見せてプロポーズした。

今年は、籠に挑戦する朔良ちゃん(9歳)。夏休みの課題では、鉋屑を使ったオブジェで全国の賞を取るなど素質十分。
「お父さんは、怒ると顔が真っ赤になって角が生えてくる」と銀次郎君(7歳)が言えば、「うん、鬼になる」と朔良ちゃん。妻の三智子さんとは、椅子一つ見ても意見交換し合う関係。「職人とは違う視点だから勉強になる」と木下さん。

組子が結んだ師弟の縁

「組子は、一生の仕事。ずっと親方の元で働きたい」と話す石橋さん。
言葉を交わさずとも息のあった仕事をする木下さんと石橋さん
田坂さんの自由な発想から生まれた美しいキューブ型行灯。
挑戦したいものが次々と湧いてくると笑顔を見せる田坂さん。

 塵一つなく掃き清められた仕事場には、今日もFMラジオが流れている。長年使い込まれ、幾重もの傷が刻まれた作業台。そこに張り付く大柄の木下さんと、精巧な組子細工とのギャップに、ここを訪れた誰もが「本当に作ってるの?」と驚くとか。
 現在、スタッフは2人。一番弟子の石橋勉さんとは、実に20年ものつきあいになる。独身時代、クリスマスイブの真夜中まで仕事をした後、居酒屋で呑んだこともあった。家具製作所で働いていた石橋さんが、初めて木下さんの組子を見た時、「同じ木で、ここまでできるのかと気が遠くなった」という。繁忙期に手伝ったのをきっかけに社員となり、今では組子歴十年の職人へと成長した。
 8時30分に出勤したら、18時まで一日はアッという間。昼食は、皆で同じ弁当を食べる。もともと気の合う先輩後輩の間柄だったが、今では師匠と弟子の関係。「自分の我は一切出さず、頭を真っ白にして親方の言われることを全てやっています。親方は、組子屋の肝ともいえる数字に強い。たとえ同じ物が作れたとしても丁稚奉公してきた深みは追い越せないと思う。100パーセント尊敬しています」。
 2人目の田坂照元さんは、実はもと恩師。大川工業高校で木下さんに初めて木工を教えた教師である。
 田坂さんがまだ高校に勤めていた頃。福岡県からものづくり体験の課題が出た際に木下さんに組子指導を頼んだことがあったが、予算もない中、「先生、よかばい」と快く応じてくれたという。もちろん、生徒たちにも大評判。「その時、木下が校舎の玄関に組子細工の衝立を作ろうって提案してくれて、材料も全部寄付してくれたんです。彼の男気に感謝しました」。
 以来、組子が頭の片隅にずっとあった。60歳で高校を退職。残りの人生を真剣に考えた時にパッと頭にうかんだのが、前に木下さんの工房で見た組子細工だったという。このままでは死ぬ時に後悔する。せめて自分の手でものを生み出し、生きた証として残したい。「なあ、木下、遊ばせてくれんか」。思いきって仕事場を訪ねたその日から、田坂さんも「木下木芸」の一員となった。
 今は月曜日から金曜日まで工場に通う。組子はもちろん、ペーパーナイフなど挑戦したいものは山ほど。「木下、こういうの作りたいけどできる?」。組子細工によってできた影が360度、壁面にうかびあがるキューブ型の行灯も、田坂さんのそんな何気ないひと言から生まれた。図案を詰め込みすぎない抜け感のある組子の引き戸も同じ。「作業効率より、面白さを優先した先生のデザインは、刺激になります」と木下さんが目を輝かせる。「幸せなんです。木下の所で好きなことさせてもらって」。
 教師と生徒という関係を超えた友情で結ばれた二人にとって、「木下木芸」の毎日は、夢と希望に溢れている。
 これからも“木下流”の大川組子の継承に向かって、三位一体の挑戦は続いていく。

大川組子を守り、育てるために

 「葉」と呼ばれる一つの部材は華奢だが、それが隙間なく組み合わさると、想像を遥かに超える強靭さを生む。「人間も一人は弱いけど、皆で支え合っていけば強い。それと同じです」と木下さんが笑顔をうかべる。
 図案をデザインする際は、バランスが重要。「花束にたとえるなら、かすみ草や葉っぱがあって初めて豪華な花も引き立つわけでしょう。麻の葉紋様は、花でいったらかすみ草。周りを引き立てるし、単体でも成立するから。麻の葉は、基本中の基本ですけど縁起が良いし、一番好きな柄。必ず入れます」。
 組子の魅力は光と影だと、木下さんは常々思っている。見る角度、光の射し方によって一瞬で表情を変える組子は、いつどんな時でも見飽きることがない。「組子細工を通して生まれる影、その一体感に惹かれます」。そして何より、木をふんだんに使った日本家屋は、すこやかであったかい。「呼吸する家、それが日本の住宅の良さ」。
 法隆寺宮大工棟梁家が伝えてきた棟梁心得『鵤寺工古口伝』に、「社殿堂塔の用材は木を買わず山を買え、用材は生育の方位のままに使え、堂塔の木組は木の癖組、木の癖組は工人達の心組、工人達の心組は匠長が工人への思いやり」という教えが登場する。(『宮大工 西岡常一の遺言』)
 こうした適材適所の考えは、組子の部材選びも同様。一番扱いやすいのは檜だが、目が小さく詰まっていて脂っ気がある秋田杉や吉野杉も使いやすい。中でも細かい組子細工に適しているのは、皮の際。木を選ぶ時は、できるだけ現場に出かけて選ぶのを信条とする。「木に対して言いたい事は山ほどあります。でもこればっかりは接してみないとわからない。おんなし山のおんなし場所に生えている木でも性格が違う。人間と一緒で、みんな個性があるんです」。
 太い指でひょいひょいと葉っぱを組み入れる姿からは想像できないが、「俺、決して器用じゃないです、組子が好きなだけ」と木下さんは言う。幼い頃から建具屋の工場が遊び場だった。木で竹馬を作ったり、スキー板で滑り台の上から降りたり。幸い、木屑という玩具は好きなだけあった。父の背中を追いかけるうちに、組子という生涯の仕事と出会ってからは、「一生この仕事でご飯を食べられるように、自分の可能性を何とか広げている」真っ最中だという。
 和風建築が衰退し、組子の需要も激減の途を辿る今。「だからこそ固定概念を外して、いろんなことに挑戦したい。「SAJICA」では海外進出も視野に入れてます。こういう人相してますから、自分から積極的に声をかけないとですねえ」と冗談を飛ばす。
 根っからの負けず嫌いだ。どんな瀬戸際にいようと、にっこり笑顔を絶やさない。未来への不安もあるけれど、「そういう時は、自分で自分を褒めてます。初めて挑戦する仕事も必ずできるんだという自信を持ってやることが大事ですから」。
 後継者を育てるためにも、子ども達に夢を感じてもらえるよう、日々前向きに楽しく仕事をしていくことを心がける。「金は残りませんけど、自分の財産は、仲間がいっぱいいることです。仲間は、足し算じゃない、かけ算ですから」。

工場隣の展示場でたくさんの作品に囲まれて。
組子細工の周知のため、家具展などで積極的に実演もする。

いつか看板を掲げるその日まで

 福岡県指定の伝統工芸、大川組子。それは残念ながら過去の栄光であり、現状は産地と呼べる規模ではないと木下さんは言う。かつて盛んだった時代は、組子の作業中に人が来るとパッと布で覆って隠したものだった。しかし、住環境の変化や丁稚奉公制の衰退に伴い、「それでは、大川組子が途絶えてしまう。だから私は道具も技術も包み隠さず全部見せますし、地元大川の樟風高校に指導に行ったりして、絶対に自分の代で止めないようにって頑張ってます」。
 顧客も様変わりした。開業して五年は建具屋からの注文もあったが、今では一割に充たない。「今まで組子屋は建具屋を支える縁の下の力持ちでしたけど、これからはどんどん自分の名前で表に出ていかないと。どんな小さな仕事でもいいから引っかかるようにって、手足を思い切り広げてます。仕事は絶対に断りません。また好きなんですよね、人がやらないような仕事が」。
 今後は、三次元の立体組子を作ってみたいと語る木下さん。業界では「異端児」と呼ばれるその眼差しは、誰よりも激しく熱かった。

「自前の工場を持ったら、看板を掲げます。樫の木材も、文字も、彫刻も、全部仲間が協力して作ってくれたんです」と胸を張る。

木下正人(きのした・まさと)略歴

昭和39年(1964) 8月6日福岡県大川市に生まれる
昭和57年(1982) 福岡県立大川工業高校卒業後、栃木県鹿沼市の建具屋に師事
昭和59年(1984) 栃木県鹿沼市の組子屋に師事
平成 2年(1990) 26歳で大川市に戻り、「木下木芸」設立
平成19年(2007) 大川地域ブランド「SAJICA」にてフランス・パリの展示会に出展
平成20年(2008) 同じくドイツ展示会に出展
平成21年(2009) 同じくドイツ展示会に出展