組む

組子 木下正人 「組子の物語」

木を慈しむ 日本人のDNAをひとひらの木片に織り込む組子。
光と影の造形を心の眼で見つめる時この国に生まれてよかったと
手を合わせたくなる。

木と日本人

森羅万象に宿る神々

 ビルが濫立する街の片隅にさりげなく佇む木立。爽やかな樹木の薫りがただよう緑陰に、心がなぐさめられる想いがする。森に行き、大木にもたれかかる時の木肌の質感とぬくもり、どっしりとした安心感もまた格別だ。金属でなく木の匙で汁物を味わう時のやさしい口あたり。檜(ひのき)造りの風呂に身を沈める時の何とも言えない喜びもそう。木は、太古から現在まで移りゆく私達の生活にぴったりと寄り添い、人間としての根源的な「快」を呼び覚ましてくれる。
 古来より日本人の木に対する愛着と郷愁は、世界に類を見ない。『古事記』『日本書紀』に登場する樹種は、檜や杉、楠、松など全部で53種、27科40属にも及び、平安初期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじしょう)』には、「木霊(こだま)」「木魂(こだま)」という語が登場する。そこには、天地を巡る森羅万象のあらゆるものに「産霊神(むすびのかみ)」が存在しているという日本人ならではの信仰心に支えられたアニミズム思想が見てとれる。  
 森と海に囲まれ、温暖湿潤な自然風土が広がるモーンスーン地帯の日本列島。縄文時代には、狩猟・採集によって自然と共存する生活術を形成した。やがて鉄などの道具の発達と共に、樹木から木材を切り出し、用材としての利用が始まった。木と共に歩んできた日本人が、その時代に合わせて木とどのように折り合いをつけ、美を見出し、暮らしてきたのだろうか。歴史を遡り、紐といてみたい。

組子職人 木下正人

書院造りから数寄屋書院造りへ

夏の茶会を涼しげに彩る組子の風炉先屏風。

 木材を扱う日本人の技術は、世界でも群を抜く。樹木を讃えてやまないその独自の自然観は、今なお残る古代の建築物にも色濃く映し出されている通りだ。
 日本の建築様式の歴史の始まりは、飛鳥・天平時代に中国から伝来した「和様」と呼ばれる社寺建築に端を発するといわれている。平安初期は寝殿造りに幕を開けたが、後期には宋との交易が活発化。多くの禅僧が往来する中で、次第に「禅宗様」とよばれる伝統建築様式が広まっていった。
 扉や窓に多用された格子は、日常と修行を行き来する僧侶にとって、外と内を隔てる結界のような役割を果たしたという。こうした可動式の障子や襖、屏風、簾などで一つの部屋を臨機応変に仕切る生活様式には、日本人ならではの鷹揚な感性が現れている。
 織田信長ら戦国武将によって幕開けした中世鎌倉期。建築も書院造りへと移行していくわけだが、江戸期・明暦三年(1657)には大火事が発生。百万石の江戸を揺るがす大惨事だったが、そこは古人の逞しさ。職人を中心とした町人総出の復興作業が行われる中で、書院造りの規格化がすすみ、茶室に代表される数寄屋風書院造りへと発展を遂げていく。
 大陸からきた大工道具の登場も大きい。15世紀には縦引き鋸の「大鋸」が、17世紀には台鉋、現在のように鉋を引いて使うようになったのが18世紀。書院造りの最大の特徴、明かり障子が発明されると、建具のデザインも一気に多様化していく。美を追求する現代の組子細工は、この頃が始まりといえるのではないだろうか。

寺社建築の桟唐戸に源流が

 初めて、組子細工を前にした時の驚きを何と表現すればいいだろう。薄い木片から透けてきらめく光。慎み深い濃淡に彩られる影。屋外とこちらが繋がっているような、不思議な一体感。年月と人の手によって編まれた風景には、和みの空気が満ちていた。
 組子が建具技術の粋といわれる所以は、その手法にある。釘を一切使わずに紙のような木片を手加工で組み合わせ、直線はもちろん、曲線や複雑な紋様、風景までも描いてしまうのだから。
 昭和29年より、鈴志野金之助氏によってまとめられた建具工芸の専門書『建具雛形図案全集』によると、その繊細で優美な技のルーツは、中国の寺社建築に見られる桟唐戸※といわれている。しかしながら単なる模倣に終わることなく、自然に裏打ちされた美意識と感性、辛抱強い器用な手を持つ日本の職人によってめざましい発展を遂げたのは言うまでもない。

※重厚な板戸の和様に対し、四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ軽快さが特徴。

組子職人のルーツ

『日本書紀』に「木工」という語が登場するが、建具職という専業者が生まれたのは、江戸時代に入ってからのことである。問屋制家内工業が広がり、職人の町が形成された江戸。『日本庶民生活史料集成第三十巻』(昭和五十七年)によれば、職人が一般化してきたのは中世十四世紀頃からで、経済が急成長を迎える元禄(1688〜1704)から文政(1818〜1829)にかけて、職人は人々の憧れの的だったという。
 先の風俗資料から組子職人のルーツを辿ってみると、「船大工」から「戸障子師」、そして「建具師」という流れが推測される。長屋が密集した江戸の町は、火事や大地震に見舞われることも多かったため、建具師の仕事の需要はうなぎ上り。当然、場数を踏んだ職人はめきめきと腕を上げた。それと同時に、小規模の受注生産制が主流の地方においては、逆に時間と手間を惜しみなくかけることができた。その結果、本当に腕のいい職人が各地に残り、高い技術が伝承されたと考えられる。
 職人といえば丁稚奉公の世界だが、『匠の国 日本』(PHP新書)によれば、江戸の巨大な職人需要を満たすためには、血のつながりのある我が子だけに伝承する一子相伝制では間に合わず、大規模な職人集団の形成が求められたという。また独立に際しては、親方は弟子に道具一式と仕事着の半纏を持たせて送り出した。公私の区別なく親方に付き従うこのような師弟関係は、そのあまりの厳しさに近年では廃れつつあるのが現状だ。

船大工『職人尽絵屏風(しょくにんづくしえびょうぶ)』(1620年)より。
戸障子師(としょうじし)『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』(1688年)より。

激変する日本の住まい

 都市はもとより郊外でも、欧化されたマンションや建売り住宅が目立つ昨今。哀しいかな、和室がない住まいも珍しくはない。新進気鋭の建築家たちは、自然素材と職人の熟練の技を要する日本家屋から遠ざかり、一切の無駄を省いた箱のような家を建てたがる。和室の存在そのものが危ぶまれる現代。このままいけば、欄間や書院障子が消え、床の間が消え、やがて畳や障子ですら見たことがないという世代が圧倒的に増えるだろう。となれば、日本の気候風土が育んできた木造建築の文化はどこへ行くのか。これまで石にかじりつくようにして、建具屋や組子屋が繋いできた伝統の技は、どのような道を辿るのだろうか。
 現在、全国に約百人と言われる組子職人。その多くは東北在住で、西日本エリアになると極端に少ないのが現状だ。日本一の家具の町として知られる福岡県大川市も、かつては組子の一大産地だったが、今や純粋な組子屋はただ一軒だけ。
 和風から洋風へ。激変する生活様式に応じて、組子職人も、今、生き残りをかけた方向転換を迫られている。

木下正人(きのした・まさと)略歴

昭和39年(1964) 8月6日福岡県大川市に生まれる
昭和57年(1982) 福岡県立大川工業高校卒業後、栃木県鹿沼市の建具屋に師事
昭和59年(1984) 栃木県鹿沼市の組子屋に師事
平成 2年(1990) 26歳で大川市に戻り、「木下木芸」設立
平成19年(2007) 大川地域ブランド「SAJICA」にてフランス・パリの展示会に出展
平成20年(2008) 同じくドイツ展示会に出展
平成21年(2009) 同じくドイツ展示会に出展