鍛冶屋三代
十三・五坪の
モノ語り

博多包丁 職人 大庭利男「職人ストーリー」

村の鍛冶屋

 しばしも休まず つち打つひびき
 とび散る火花よ はしる湯玉
 ふいごの風さえ 息をもつかず
 仕事にせい出す 村の鍛冶屋

(小学校唱歌 作詞・作曲不詳)

 かつて、日本のどこでもこんな風景が見られた。鍛冶屋が鉄を打つ風景はごく当たり前の日常だったのである。
 思えば、昭和の後半は、あらゆる産業で機械化が進み、道具が姿を消していくなかで、「村の鍛冶屋」が死語になり、鍛冶職人たちが一人またひとり減っていった時代だったといっていい。この唱歌が音楽の教科書から消えたのは、昭和55年(1980)だった。
 いま、鉄を鎚で打つ音を、どれだけの子どもたちが知っているだろう。大人でさえ、一度も鍛冶屋を見聞きしたことがない人が多数派になっているはずだ。
 かつて数十軒はあったという福岡市内の鍛冶屋もいまでは数えるほどになった。大庭利男さんは、その数少ない鉄の匠の一人である。

鍛冶屋の長男に生まれて

工場が建ったのは大正15年。竹の芯材がのぞく土壁が、鍛冶屋としての歴史を物語る。

 カンカンカーン、タンタンタン ・ ・ ・ 表の通りにリズミカルな鎚音が響く。音に合せて飛び散る火花に、通りがかりの人が時折見とれるように中をのぞいていく。
 福岡市中央区清川。九州一の繁華街・天神から続く目抜き通りを一本入った市道沿い。大庭鍛冶工場は、高層マンションを背に、そこだけ時間が止まったように佇んでいる。
 工場は、廃材を利用して祖父と父が建てた。木造スレート葺、間口二間、奥行き四間、広さは十三・五坪(約40平方メートル)ほど。赤い鉄錆で染まった土間や黒く煤けた土壁が、90年の歴史をしのばせる。
 鍛冶屋を起こした祖父(梅吉さん)は博多区で鋤や鍬などの農具を専門につくり、二代目の父(秀雄さん)は、大正15年(1926)に現在地に移るまで、西区の姪浜にあった炭鉱で野鍛冶をしていた。
 やがて石炭の時代が去ると、その需要もなくなり、日本中が沸いた東京オリンピックを契機とした高度経済成長期には、建設ラッシュに応えてツルハシなどの土木工具も手掛けた。その工事も80年代には機械化が進み、いまは博多包丁を中心に、消防隊が出初め式で使うはしご用の釘や、ワカメ採り用の鎌などをつくる。
 大庭さんは、昭和13年(1938)3月25日、上三人が男、下二人が女の五人兄弟の長男として生まれた。小学生のころから、火床のコークスをふいごで吹いて火を熾したり、掃除したりして手伝わされ、中学に入るころには父親の「向こう鎚」を打つようになっていた大庭さんだが、最初からすんなり鍛冶の仕事に馴染んだわけではない。
 「親を恨んだものですよ。『弟は学校から帰ったらカバンを放り出して遊びに行くのに、なんで俺だけが…』ってねぇ」
 長男が家の仕事を継ぐのが当たり前だった時代。中学を終えると、正式に父に弟子入りした。当時は父と叔父が二人で鎚をふるい、忙しいときには母も手伝っていたという。

朝八時。引き戸が開いて、今日も大庭鍛冶工場の一日が始まる。

病を乗り越えて

 父に弟子入りして五年ほどたった二十歳のころ、大庭さんは体調をくずしたことがあった。相談した医者は診察の後、「あなたのからだは鍛冶屋には向かない。ほかの仕事を考えなさい」とすすめたという。
 気分が沈んで仕事をする気にもならず、鬱々とした日々が半年ほど続いたある日、「やっぱり鍛冶屋をやろう」と思いを定める。
それからは迷うことはなかったという。
 からだの負担を少しでも減らすために、粗削りの工程にベルトハンマーを取り入れ、一日一日、地道に仕事をこなしていった。
 その後、40歳を少し過ぎたころには「ベーチェット病」と診断される。原因不明の病気で、国の難病にも指定されているが、大庭さんは「一病息災って言葉があるでしょ。あれですね。お陰でいまでも二週間に一回は病院で血液検査をしているから、ちょっとでも悪いところがあったらすぐに分かる」と屈託がない。

昭和30年代半ばの大庭鍛冶工場周辺。
昭和34年、工場の前で。
那珂川を背に、20代の大庭さん。 当時は周囲に高い建物もなく、田んぼが広がっていた。

伝統を継ぐ者として

 親の見よう見まねから始めた鍛冶屋の仕事も半世紀を超えたが、「金儲けを考えたら鍛冶屋は出来まっせん。毎日の御飯が食べられればよか」と、どこまでもマイペースである。
 平成11年(1999)には長年の功績により、福岡市技能功労者として表彰され、平成15年(2003)には「博多町人文化勲章」(博多町人文化連盟)を受章。翌々年の平成17年(2005)には「博多マイスター」(福岡市)に認定された。また、博多伝統手職人連盟の会員としても、伝統の技の紹介と継承に奔走している。

明治末ごろの鍛冶屋のチラシ。当時どんな道具が作られていたかが分かる。上段右から4番目に博多包丁が見える。

鍛冶屋の神様と 博多のおえべっさんに 見守られ、時はゆっくり流れていく。

「博多の一本包丁」

作業は、休憩や昼食をはさんで、毎日朝8時から夕方5時まで。カンカーン、カンカーン、カンカンカン… 今日も澱みのない鎚音が響く。

 反り返ったみねと鋭く尖った刃先が目を引く「博多包丁」。「黒打ち」と呼ばれる磨きをかけない表面には鎚の跡が残る。
 野菜、肉、魚料理と何にでも使えることから「博多の一本包丁」と呼ばれて、ごりょんさん(町家のおかみさん)をはじめ、地元の主婦に愛されてきた。
 博多包丁は、その昔は「イナサ包丁」とも呼ばれていた。勢いよく跳ねる魚を思わせる姿からの名前なのかとも思うが、詳しいことは分からない。
 「長崎に同じようなかたちの包丁があるという人がいてね。長崎には稲佐山という山もあるし、じいさんが修業に行っていたこともあると聞いていたから、そこで見覚えたのかもしれんと思ったけれど、どうもそうじゃないらしい」と大庭さんは言う。ルーツは不明だが、明治の末から大正初めごろのものと思われる鍛冶屋の宣伝チラシのなかに、薄刃包丁や刺身包丁と並んで「博多包丁」が載っていることから見ると、その当時、すでにこの独特なかたちの包丁が「博多包丁」の名で呼ばれ、定番の品として扱われていたことはたしかだ。
 農工具をつくる傍らつくり続けられてきた博多包丁も、いまは手掛ける人はごくわずかである。
 すべての工程が手作業なので、一日当たりにすると三本ほどしかつくれない。仕上がりのサイズも一本一本微妙に違う。だが、無骨な姿には何ともいえない温もりがある。
 錆びない、軽い、万能を謳い文句にしたステンレス包丁に押されて姿を消しかけたが、日本の伝統や手づくりのよさが見直されてか、最近は人気が高く、待ってもらうこともあるという。「結婚する娘にもたせたい」という注文も多く、なかには「いまのうちから孫に使わせたいから、ひと回り小さいものを」とオーダーする人もいる。

変えたもの、変わらないもの

 博多包丁づくりを見学させてもらった。
 大庭さんが「窯」と呼ぶ火床はレンガ造り。福岡市博多区にあるアサヒビールの工場や九大病院の正門を手掛けたレンガ職人に頼んで、つくってもらったものだという。約90年前の創業以来、変わったのは戦後築き直したこの火床とふいごと向こう鎚。いまはふいごに風を送るのに電気の力を借り、ベルトハンマーがガシャンガシャンと向こう鎚の仕事をこなす。また、昔は平らな床に座って鎚をふるったが、いまは床を40センチほど掘り下げた横座に立って鉄を鍛える。しかし、すべての作業を手でこなすことには変わりがない。

鉄を鍛えに鍛えて

博多包丁は、極軟鋼に大庭さんが「黄鋼」と呼ぶ安来産の鋼を鍛接する。
火床の温度や鉄の焼け具合は、すべて長年の「勘」で見極める。

 博多包丁は柔らかい地鉄(極軟鋼)に島根県安来産の鋼を挟んで鍛造し、両刃に研ぎ上げる。
 まずは、安来鋼を焼いて叩いてを繰り返し、博多包丁、出刃包丁、小出刃など、つくる包丁の大きさにあわせて鋼をつくる。次に地鉄を赤く焼いて延ばし、先端に細い溝をつくって鋼を挟み、ホウ砂(接着剤)をかけて接合する。これを焼いては打つ、を繰り返して、少しずつ包丁のかたちに近づけていく。金敷の上で鏨を使い、柄に差しこむ部分を切り出し、かたちを整えていく。途中で根元近くに四ツ菱の印が刻まれると、鉄の板がぐっと包丁らしくなった。
 ここで一度ゆっくり冷やし、グラインダーと砥石で生研ぎした後、再び火床に入れて熱し、菜種油に入れる。これが「焼き入れ」である。
 焼き入れすると鋼は硬くなるが、もろくもなる。そこで、温度を下げた火床に再び入れてじっくり焼き(焼き戻し)、もろさを除く。さらにグラインダーを使って刃を立て、二種類の砥石を使って粗研ぎ、仕上げ研ぎを施し、柄を付け、焼き印を入れれば、博多包丁一丁あがり、となる。
 「いちばん気を遣うのは、焼き入れと焼き戻しの工程」と大庭さん。火加減と焼き加減が難しいここが、包丁の善し悪しを決める勘どころである。
 鍛冶の仕事には図面がない。つくり方のマニュアルもない。大庭さんは「火床の温度を計ったこともない」という。鉄の温度も焼け具合も、炎の色や火花の飛び散り方で見極めるのだ。「ハンマーで叩いているときの感触、鉄の粘り具合や色で分かってくる」。職人の技とは、こういうものなのだろう。

家庭で使うことを第一に

 刃物つくりに欠かせない安来産の鋼は、含有する成分と硬さによって白・青・黄の別があり、プロが使う包丁には青紙と呼ばれる硬い鋼が使われる。
 青紙を使っている包丁であると誇らしげに語る鍛冶屋が多いなかで、大庭さんはずっと極軟鋼に黄紙の鋼を仕込んでつくってきた。
「博多包丁は家庭用の包丁やけんね。解凍途中の冷凍食品を切ったりすることもあるでっしょ」。あくまでも普通の主婦が長く使うことを考え、刃こぼれしにくく、研ぎやすい仕上がりにしているのだ。右利き左利きの別なく使えるよう、「うちの包丁は全部両刃」でもある。
 買った人には使い方もていねいに教える。といっても難しいことは何もない。使ったあと、洗って熱湯をかけ、乾いたふきん で拭きあげておくことと、時々研いで切れ味を保つこと。これで20年はもつ。
 「四ツ菱の刻印のところまで鋼が入っているので、研げばここまで使える」とも教えてくれる。いまでも時折、父がつくった包丁の修理を頼みに工場を訪れる人がいるという話も聞いた。

「よりよいもの」をつくりたい

 だが、大庭さんは「つくったものに満足したことはありません」と言う。つくるたびに、ここをこうすればよかった、と反省する。
 よりよいもの、使う人に喜ばれるものをつくりたい——大庭さんを支えてきたのは、ごく真っ当な、しかし、いまの世では稀なものになってしまった「職人気質」である。
 先輩の後を引き継いだ土俵鍬の製作では、父に教えられた「焙烙流し」の技もさることながら、土俵鍬の使い手である呼び出しさんの声を細かく聞き、刃の大きさ、角度、薄さや柄のかたちまで、「少しでも使いやすいものを」と重ねてきた工夫が生きている。だからこそ、「大庭さんの鍬でなくては」と信頼が寄せられるのだろう。つくり手と使い手が一体となってはじめて、道具はものとしてのいのちを得るのである。
 あくまで趣味だというミニチュアの農工具でも、「こんな道具があったんだよ」と後の世に伝えたいから、錆びないよう、あえて硬くて加工しにくいステンレスを使い、小さな道具をつくるための小さな鍛冶道具をつくることも厭わない。
 大庭さんの宝ものを見せていただいた。
二十年間、大事に大事に使いこまれた博多包丁である。研ぎを重ねた刃は元の半分ほどの幅になっている。「こういうことがいちばん嬉しいね。鍛冶屋やっとって、よかったと思うと」。

使う人に喜ばれたときが いちばんうれしいねぇ。 職人ちゃ、そげなもんでっしょ。
上がお客さんの家庭で20年間使い込まれた博多包丁。 柄を替えながら、研ぎを繰り返して使われた、文字通りの「博多の一本包丁」である。

技を継ぐということ

最後の仕上げに柄に入れる「博多包丁」と銘「四ツ菱」の焼印。銘は祖父が修業先の親方から、のれん分けの際に譲り受けたものだという。
アルファベットや数字の刻印にも応じる。この日は「居酒屋を営む父の還暦祝いに博多包丁を贈りたい」という男性の注文で、イニシャルと日付を刻印していた。
師匠を「大将」と呼ぶ愛弟子の宮崎春生さん(左)。高校を出てすぐ弟子入りした。

 大庭さんは奥さんの洋子さんと二人暮らし。北海道生まれの洋子さんとの馴れ初めを訊いても、「ふふふ」と笑うだけだ。長女が嫁ぎ、一時、鍛冶屋を手伝っていた長男も、いまは独立して、会社勤めである。
 どんな職人仕事でもそうだが、儲かるなら後継者に困ることはまずない。博多包丁は、つくれてもせいぜい一日三本。一本七千五百円。しかも、大切に使えば二十年はもつ。「鍛冶屋は楽しみながらやれる人間でないとね。自分が継いだときの気持ちを考えると、息子に無理にやれとは言いたくなかった」。「のこの島アイランドパーク」の久保田耕作さんに頼まれ、十五年間、日曜と祝日に博多湾に浮かぶ能古島で職人の技を披露していたときも、「誰か鍛冶屋に興味をもって、やってみたいと思ってくれないか」という秘かな願いがあったが、一人として現れなかった。
 「跡継ぎはいません」。長い間、取材やインタビューにそう答えてきた大庭さんを「鍛冶屋になりたい」と、五島列島の福江島から訪ねてきた若者がいた。宮崎春生さん。高校を出たばかりの十八歳だった。
 インターネットで伝統工芸に興味をもち、なかでも鍛冶屋という仕事に惹かれ、いろいろ調べて大庭鍛冶工場にたどり着いた。
 「ぜひお願いします。将来、独立するときのために、島の鍛冶屋さんの道具を買い取りました」と両親。「給料は払えませんよ」と大庭さん。「要りません。他人にはできないものをつくってみたいんです」と宮崎さん。一家をあげての熱意に、それほどならと引き受けた。
 大庭さんを訪ねた日、夏は軽く六十度を超える火床の前で、宮崎さんは鉄を焼いては打ちの作業を繰り返していた。
 鍛冶屋の技術をひと通り身につけるには、最低でも五年はかかる。休みは日曜と祝日だけ。だが、「大将は多くは語らないけれど、後ろ姿から勉強させられることが多いです」と宮崎さん。見て、自分でやってみて、考えて、またやってみる日々のなかで「少しずつ面白くなってきました。でも、真似するだけではだめだから、自分なりのやり方を見つけて、いつかは大将を超えていきたい」と清々しい。入門三年目、気負うことなく、選んだ道を信じて歩む宮崎さんに、「土俵鍬の焙烙流しも伝えられたら」と、大庭さんも目を細める。

時代を超えて

 「道具を使う人がいて、使い途が変われば、道具のかたちはどんどん変わっていく。つくってほしいといわれるものを、文字通り、数え切れないほどつくってきた」と大庭さんは自分の鍛冶屋人生を振り返る。農具から土木用具、そして博多包丁へ。「つくるものは時代につれて変わるから、『これからは包丁ばかりつくっとってもつまらん。これを応用して新しいものをつくらんと』と宮崎君にもよく言っとると」とも語る。そこには、伝統を守りながらも固執することなく、時代の風を取り入れて、押し寄せる波に立ち向かってきた匠のしなやかな強さがある。
 「つくったものが喜ばれたときが、いちばんうれしい。職人ちゃ、そげなもんでっしょ」と鉄を鍛え続けてきた人の手は、黒く、逞しく、美しい。「職人には卒業はなか。死ぬまで一生修業です」。

大庭利男(おおば・としお)略歴

昭和13年(1938) 3月25日福岡市西本町に生まれる 
昭和19年(1944) 福岡市立高宮小学校入学
昭和28年(1953) 福岡市立高宮中学校卒業。父に師事する
昭和58年(1983) のこのしまアイランドパーク内の「思い出通り」で、桶屋・城国敏氏、
         竹細工・樋口精一氏とともに伝統の技を実演披露(平成10年まで)
平成 8年(1996) 「はかた名匠展」(博多伝統手職人連盟主催)出品(NHKギャラリー)
平成10年(1998) 「はかた名匠展」出品(NHKギャラリー)
平成11年(1999) 福岡市技能功労者
平成12年(2000) 「はかた名匠展」出品(福岡市アジア美術館)
平成14年(2002) 福岡県優秀技能者
平成15年(2003) 博多町人文化勲章(博多町人文化連盟)受章
平成16年(2004) 「はかた名匠展」出品(アクロス福岡)
平成17年(2005) 「博多マイスター」(福岡市)に認定
平成18年(2006) 「はかた名匠展」出品(アクロス福岡)