鍛える

博多包丁 職人 大庭利男「博多包丁の物語」

鉄を熱し、
打ち鍛えてかたちを与え、
道具としてのいのちを吹き込む
鍛冶という技。
一人の職人のなかには、
日本人二千年の知恵が
息づいている。

鉄の来た道

アナトリアの大地から

 人類史上初めて鉄器を持ったのは、ヒッタイトだった。紀元前二千年ごろ、アナトリア(現在のトルコ共和国のアジア部分)地方に北方から現れたヒッタイトは、紀元前千七百年ごろまでにこの地の大部分を征服し、王国を築いた。さらに、紀元前千四百年ごろまでには、首都ハットゥシャシュを中心に小アジアとシリアを支配する大帝国となり、さらに南下して大国エジプトと抗争を繰り返した。
 彼らの驚異的な強さを支えたのが、鉄と馬だった。ヒッタイトは先住民ハッティから継承した製鉄技術を発展させ、剣や槍、馬に引かせる戦車などを開発。当時最先端の軍事力で周囲を圧する強大な国家を築き上げたのである。
 その素材である「鉄」と人間との出会いがどういうものだったかについては、二通りの説がある。一つは、隕石の鉄塊「隕鉄」だったというもの。天空から降ってきた不思議な石を叩くなどして加工・利用したのではというのだ。紀元前千八百〜千七百年より以前の遺跡から見つかった鉄器には、隕鉄の特徴であるニッケルが多く含まれていることがその理由である。
 もう一つは、地表近くの鉄鉱床が山火事などで焼けてできた還元鉄を利用したという説。ごく稀な偶然に頼る隕鉄よりは出会う頻度は高かったはずである。いずれにしても、人類が鉄という金属を知ったのは、いまから五〜六千年前だったと考えられている。

ヒッタイトから世界各地へ

 強大な力を誇ったヒッタイトは“海の民”といわれる謎の民族の攻撃を受け、紀元前千二百年ごろから滅亡への道をたどり、ヒッタイトが国家機密として独占・保護していた製鉄技術は、ヨーロッパやアフリカなど周辺に広まっていく。そのルートは、伝播したかどうかという問題も含めて不明な点が多いが、日本に最初にもたらされた鉄は、直接的には朝鮮半島南部からのものだったと考えられている。

鉄は稲作とともに渡来した

博多包丁の刃の表面に残る

 その最初の鉄が日本に入ってきたのは、北部九州で、時期は水田開発が活発になる弥生時代の初めごろ(紀元前三〜二世紀)といわれている。当初は、朝鮮半島などで鋳造された鉄器をそのまま使ったり、壊れた鉄器のかけらを研ぎ直して使ったらしい。
 「鉄」は古くは「銕」と書いた。夷とは異民族の意である。リサイクルであっても、鉄は、渡来人が稲作とともに携えてきた最先端の文化だった。作家・司馬 太郎は、「人類の進歩に国際交流は不可欠であり、極東の島国・日本における最大のそれは『鉄の伝来』であった」と述べている。(『司馬 太郎が語る 私ども人類』)
 時代が下り、水田開発が進むにつれて土地をめぐる争いが激しくなると、周囲に壕をめぐらせた環壕集落がつくられるようになる。さらに弥生時代中期にあたる紀元前後になると、それぞれの首長の力が強まって、各地に小さなクニが成立していく。『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り、献じ見ゆという」と記された時代である。このころ、朝鮮半島に近い北部九州では、鉄はすでにかなり行きわたっていたと見られている。

鉄がもたらしたもの

 『魏書』東夷伝の弁韓の項は、「国、鉄を出す。韓、 、倭、みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用う。中国で銭を用いるが如し。又以て二郡に供給す」と記す。
 この記述や、北部九州の遺跡から楽浪系の鏡や鉄剣、鉄刀、銭貨などが多数出土していることから、三世紀ごろには、倭人は朝鮮半島南部にあった弁韓(後の伽耶諸国)と交流し、鉄を持ち帰っていたことがうかがえる。この鉄を前述のように研ぎ直したり、簡単な加工を行って鉄器をつくったのである。

鍛冶の始まり

 わが国における鉄の加工は、鉄製品やその破損品、鉄素材などの再生利用から始まり、紀元前後からは、鉄そのものを加熱して曲げたり打ち延ばしたりする「鍛冶」が行われるようになったと考えられている。
 自由にかたちを変える鉄を使って、先人たちは鍬や鋤、鎌などの農具や、鏃などの狩猟具、剣や刀などの武器をつくりだしていく。まとまった量の鉄器の流通は、農業生産力を飛躍的に高め、クニ同士の勢力争いに不可欠な武器となっていく。また、まだまだ貴重品であった鉄器は、青銅器とともに権力の象徴でもあった。鉄はその強さと硬さで、古代から続いてきた社会構造を一変させる力を持っていたのである。

鉄を求めて

鉄は初め、朝鮮半島南部から北部九州へ伝わった。また、新羅や高句麗から直接、日本海に面する出雲や若狭湾沿岸にもたらされたルートもあったと考えられている。

 弥生時代の後期になると、農具は石器から鉄器へと大きく転換していく。しかし、大量に求められているにもかかわらず、このころの日本人は、まだ鉄鉱石や砂鉄から鉄そのものをつくりだす技術を持っておらず、朝鮮半島などから輸入する板状の鉄斧や鉄 、小型の鉄板といった鉄素材に頼っていた。
 神功皇后の「三韓討征」が歴史的事実かどうかはおくとして、四世紀から五世紀にかけて、わが国は幾度か朝鮮半島に侵攻しているが、その最大の理由は、彼の地に豊富な「鉄の確保」だったと見られている。「鉄資源を確保しえたものが(略)日本全土を支配しうる有力な候補者たりえた」(井上光貞『日本国家の起源』)からである。

「たたら」に始まる日本の製鉄

 日本国内でいつごろから鉄の精錬が始まったかについては、まだ定説はない。早くて六世紀ごろともいわれるが、『古事記』や『日本書紀』に「たたら」という語が見えていることから、少なくとも七、八世紀にはある程度の設備を整えた鉄づくりがなされ、国内で自給できるようになっていたと考えられている。
 「たたら」には「蹈鞴」「鑢」「踏鞴」「鈩」など、さまざまな漢字が当てられるが、語源ははっきりしていない。古代朝鮮語のタタラ(もっと加熱する)からとか、中央アジアのタタール人が持っていた皮袋が製鉄作業の送風器具(ふいご)に使われていたから、あるいは、ダッタン語のタタトル(猛火)からの転化ではなどの説がある。古代インドのサンスクリット語のタータラ(熱・猛火)や、ヒンディ語のサケラー(鋼)など、製鉄との関係をうかがわせる語が見られるのも興味深い。いずれにしても、金属精練と密接な語であるといえるだろう。
 伝来当初、「たたら」は「ふいご」を意味する語だったらしい。後に、鉄を吹くことから、鉄を精練する炉(鈩)や、製鉄を行う作業場(高殿)のことも「たたら」と呼ぶようになった。
 鎌倉時代には完成していたといわれる「たたら」による製鉄法は、わが独自の技術である。宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」に登場したといえば、分かりやすいかもしれない。高度に発達した現代の冶金技術をもってしても再現できないほど優れた鋼を作ることができる。二十世紀が幕を開けた明治三十四年(一九〇一)に、北九州の官営八幡製鉄所で近代製鉄が始まるまで、わが国の鉄の需要は、この「たたら」によって全量がまかなわれた。
 その技術がいつ、どこから伝えられたかは、語源同様、謎が多いが、日本に画期をもたらした技術革新だったことは間違いない。

鉄の文化を支えた鍛冶

 国内での鉄の自給とともに鉄の文化も花開いていく。奈良時代に始まった国分寺や国分尼寺の建立は、鉄の量産を促し、それぞれの寺院のそばには鍛冶工房や鋳造所がつくられ、寺院の建設が終わった後は、農具や工具などさまざまなものがつくられた。
 鍛冶師は早くから職人化が進んだ職業でもある。作る道具の種類の多さと需要によって技術は細分化し、日本刀をつくる刀鍛冶や、農具を扱う野鍛冶などに分かれていった。
 試みに金編の漢字を思いつくままに拾ってみよう。釘、針、釦、釿、鉤、鉉、鎌、鏃、鋤、鍬、錠、鍵、鉈、鉋、鈿、鋏、銛、鍋、錐、鑵、鏡… 農林漁業といった基幹産業から衣食住まで、およそ人間の暮らしのあらゆる場面に鉄の道具が在った。それは同時に、一つひとつの道具をつくる鍛冶師たちが存在したことを示している。
 鉄は地球の重さの三分の一を占めるという。量の豊かさに加え、熱すれば溶けていかようにも形を変え、打てばしなやかさを増し、冷やせば硬く強くなって超高層のビルさえ支える。まさに融通無碍。鉄が「人類が手に入れた最高の金属」といわれるゆえんである。

打物所では、刀剣や包丁などの刃物から、農具、釘抜きまで、鍛冶屋で打たれるものはすべて扱われた。図は江戸時代に刃物の特産地として知られた堺の打物所の様子。『和泉名所図絵』より。※『都市生活史事典』(柏書房)参照
鍛冶師は包丁、農具、鉄砲など鉄の道具全般を作っていたが、種類が多岐にわたることや技術の分化などから、刀鍛冶や野鍛冶などに分かれていった。『人倫訓蒙図彙』より。※『都市生活史事典』(柏書房)参照
『日本山海名産図会』より。※『都市生活史事典』(柏書房)参照
※『都市生活史事典』(柏書房)参照

博多に息づく鉄と鍛冶の歴史

 その鉄を自在に操る鍛冶の技術は、古代、原料となる鉄とともに、朝鮮半島からもたらされた。なかでも福岡近郊を中心とする北部九州一帯は、日本で最初に鉄器が使われ始めた地域と考えられている。
 博多湾沿岸に点在する弥生時代後期の遺跡からは、鍛錬鍛冶作業(高温で熱した鉄を鍛えて鉄製品をつくること)に関連する遺構や遺物が見られる。ここではまだ、鉄自体を精錬する技術はなく、原料となった鉄は輸入された板状鉄器や、壊れた輸入鉄器だった。また、出土した羽口(鍛冶炉に空気を送る管)には高温のために溶けていたものもあったという。鉄の鎚や鋏、金床もまだなかった時代、敲石や台石などの石器で代用しながら、すでに伝わっていた青銅器の鋳造技術を参考に、懸命に鉄を鍛えた鍛冶師たちの姿をしのばせる。また、糸島半島で五十を超えるたたら跡が発見されているように、日本最古の製鉄も北部九州で行われた可能性が高いという。
 いまも「多々良」という名の川が流れる福岡近郊は、鉄との深いゆかりを感じさせる地である。ここで鍛冶を営むのは、現在数軒だが、時を経て受け継がれてきた「鉄を打ち鍛える」DNAは、その技と心のなかに、変わることなく生き続けている。

大庭利男(おおば・としお)略歴

昭和13年(1938) 3月25日福岡市西本町に生まれる 
昭和19年(1944) 福岡市立高宮小学校入学
昭和28年(1953) 福岡市立高宮中学校卒業。父に師事する
昭和58年(1983) のこのしまアイランドパーク内の「思い出通り」で、桶屋・城国敏氏、
         竹細工・樋口精一氏とともに伝統の技を実演披露(平成10年まで)
平成 8年(1996) 「はかた名匠展」(博多伝統手職人連盟主催)出品(NHKギャラリー)
平成10年(1998) 「はかた名匠展」出品(NHKギャラリー)
平成11年(1999) 福岡市技能功労者
平成12年(2000) 「はかた名匠展」出品(福岡市アジア美術館)
平成14年(2002) 福岡県優秀技能者
平成15年(2003) 博多町人文化勲章(博多町人文化連盟)受章
平成16年(2004) 「はかた名匠展」出品(アクロス福岡)
平成17年(2005) 「博多マイスター」(福岡市)に認定
平成18年(2006) 「はかた名匠展」出品(アクロス福岡)