鋏鍛冶師
髙栁晴一

博多鋏 職人 高栁晴一「職人ストーリー」

「お櫛田さん」に見守られ

 福岡市博多区冷泉町。博多鋏を守り伝える髙桺晴一さんが工房を構える界隈は、自他共に認める〝櫛田神社のあるまち〟だ。
 櫛田神社は博多っ子が〝お櫛田さん〟と呼んで親しむ博多の総鎮守。その正面と大博通りを結ぶ細い路地や古い町家には、門前町として栄えた頃の佇まいが残る。博多駅が現在地に移転するまでは、旅館や商店も多く、昭和40年代の二度にわたる町界町名の改変までは、櫛田前町、社家町、万行寺前町、馬場新町、上厨子町、上赤間町などの町名が、博多の由緒を伝えてきた。
 高柳商店の通りを二つ挟んだ向かいは、博多鋏発祥の地とされる箔屋町(旧町名・箔屋番)。金箔や銀箔の細工をする箔屋があり、刀鍛冶や、鋏、剃刀、鋸、錐などをつくる鍛冶も住む職人のまちだったという。
 櫛田神社のお膝元で生まれ育つことは、博多を代表する祭り「博多祇園山笠」を担うことでもある。男の子は、首が据われば父や祖父に抱かれて山笠に参加し、祭りの伝統としきたりを通して成長していくのである。

戦前のままの細い路地が続く冷泉町。髙桺さんが子どもの頃は、雨が降るとぬかるむ土の道だったという。
地域の憩いの場でもある冷泉公園。春は桜が美しい。

祭りと鋏、博多と謝国明

 「海域、土地博く、人、物産多し」から「博多」と呼ばれるようになったというこのまちは、いつの時代も進取の風が吹いていた。鎌倉時代には、以後200年間も続く日本初のチャイナタウン「博多津唐房」(後の「大唐街」)が生まれ、博多綱首(貿易船の船主であり、航海と交易を取り仕切った商人)と呼ばれた男たちが海を跨いで活躍した。
 こうして東アジア屈指の国際都市となった博多を巡って、戦国武将たちは激しい争奪戦を繰り広げた。荒廃した博多のまちを復興させたのが、豊臣秀吉である。「太閤町割」によって自治権を得た博多は商人のまちとして賑わいを極め、町割に端を発した「流」と呼ばれる町区は山笠に引き継がれて今日に至る。
 この山笠の起源となったのが、帰国僧・聖一国師による疫病退散の祈りであり、聖一国師を支援した博多綱首・謝国明が宋から持ち帰ったのが、博多鋏の原型になった「唐鋏」だった。山笠に湧く冷泉の地でつくり継がれてきた博多鋏は、博多というまちがたどってきた歴史の産物でもある。

店の前の狭い路地を走る「西流」

恵比寿柱のある家

高柳商店。看板が出ていないので、知らなければ通り過ぎてしまう。店舗、住まい、作業場を兼ねる2階建ての建物で、間口は2.5間。
1階の店舗部分。壁面には数々の賞状や博多鋏の説明パネルなどが並んでいる。
奥の作業場へ続く通り道。
店舗奥の帳場周り。ふた昔前にタイムスリップしたような雰囲気だ。

 かつては職人も多く住んだ櫛田神社周辺。その名残を留める町家造りの家が、博多鋏製造元「高柳商店」である。祖父の亀吉さんが建て直したのが明治34年(1901)というから、110年ほどになる。
 「ごめんください」と入ると、足元に広がる土間の感触が足にやさしい。
 店舗と住まいの境に大黒柱、通りに面した入り口の中ほどには、珍しい恵比寿柱が立っている。いまは使われていないが、縦に溝が切ってあり、上から板戸や格子戸を落とし込める仕組みになっている。
 昔は帳場の向こうは二階まで吹き抜けだったが、父の宗一郎さんがふさいで「二階を作って茶室にした」のだという。「親父が手を入れたところを、ぜんぶ元にもどしたかぁて思うとうとばってんねぇ」と笑う。
 商家のつねで、間口は狭く、奥へ奥へと続いている。作業場は、店舗を抜け、通り道を進み、坪庭を越えた先にある。
 「西町筋」と呼ばれるこの辺りには、かつては博多人形師、仏師、三味線屋などの職人が住み、鋏屋も軒を連ねていたという。それが、一軒減り、また一軒廃業して、いまではここだけになった。山笠の季節は賑やかだが、ふだんは静か。マンションが増えてからは、鎚を打つ音が迷惑にならないように作業場はコンクリートで覆い、内壁に防音を施し、床には吸震ゴムを敷きつめた。火造りの熱がこもる夏は仕事にならないと歎く。
 旧名でいえば、この辺りは万行寺前町だが、櫛田神社の所領か馬場だったことから、地元では「馬場」と呼ばれてきた。祭礼があるときは、流鏑馬や神事がここで行われていたという。
 日々の暮らしの真ん中に、神社と祭りと「流」という拠りどころがある。寄り合い、直会、自治体活動…髙桺さんは「冷泉村」と呼ぶが、現代社会で急速に薄れつつある〝共同体〟の手触りが、一日20万人以上が行き来する真新しい博多駅の目と鼻の先で息づいている。

山がその年初めて動き出す「流舁き(ながれがき)」の日。午後5時3分、高柳商店の前を「西流」が疾走していった。

博多鋏中興から百七十年

 博多鋏の元となったのは、13世紀前半の鎌倉時代、謝国明(生年未詳︱1253年頃)が宋から持ち帰った鋏だったといわれる。「使い慣れたものを日本でも使おうと持ってきて、配下の鍛冶屋につくらせたのでは。貿易品ではなかったはず」という。当時の日本には握り鋏しかなかったが、この鋏はU字に曲がった部分が弱い。「自分や家族用に携えてきた道具が、便利で丈夫だと評判になったのでしょう」
 〝国産初の鋏〟誕生の背景には、砂鉄を豊富に産し、多くの鍛冶職人が技を育んできた博多の土地柄もあっただろう。
 江戸時代を通じて、武家用につくられてきたこの鋏に改良を加え、世に出したのが、天保年間(1830―1844)に箔屋番に住んでいた刀鍛冶・安河内卯助である。
 刀剣づくりの技術を生かし、切れ味鋭い鋏を庶民にも手の届くものとした卯助は、「鋏を専門につくった最初の職人ではないか」と髙桺さんは言う。
 明治13年(1880)、その卯助に17歳で弟子入りしたのが、髙桺さんの祖父・亀吉さんである。一心に修業した亀吉さんの腕はいつしか師と並ぶほどになる。7年後の明治20年(1887)、卯助の正統な継承者と認められ、「(うかんむりに「う」)」の商標を許されて独立する。
  廃刀令によって多くの刀鍛冶が仕事を失い、包丁や農機具などを手掛けるようになった時代、「博多鋏」に改称した鋏は、切れ味の素晴らしい万能鋏として全国に知られる特産品になっていった。
 亀吉さんは幕末の大歌人・大隈言道(おおくまことみち)の孫にあたり、さらに遡れば、筑前の名刀匠・信国又左衛門光昌(のぶくにまたざえもんみつまさ)に連なる。また、髙桺家の元々の出自は大阪の刀工・髙桺貞廣だという。鍛冶になるべくしてなったような人生は、DNAのなせる技なのだろうか。
 十二歳で本格的な修業を始めた髙桺さんの父・宗一郎さんも腕のいい職人となり、九州民芸展や日本民芸展などで受賞を重ねていく。一方、「筑紫国風社」「八雲短歌会」に所属し、言宗の名前で歌人としても活躍する。

父・髙桺宗一郎。明治37年(1904)生まれ。 国内はもとより、中国から韓国へ販路を広げようとしたこともあった。

(うかんむりに「う」)印を刻んで四代

父・宗一郎さんの頃の作業場と工具類。 現在とほとんど変っていない。
平成23年、お客さんから研ぎ直しを依頼された博多鋏。 髙栁さんは「50~60年前、父の時代につくられたもので、ここまで使い込まれて嬉しい気持と、当時と私の仕事の比較研究が出来る」と言う。

 そしていよいよ、博多鋏四代目・晴一さんの登場である。が、その道は決して平坦ではなかった。
 「火づくり十年、研ぎ八年」といわれる鋏鍛冶の技。ひと通り身につけるだけでも最底15年はかかる。だが、髙桺さんが職人の道を歩き出したのは大学を卒業してからだった。
 小さいころから職人になる気はまったくなく、作業場に入ったこともなかったという。宗一郎さんも継がせる気はなかったようで、長男だった髙桺さんに大学進学を進めた。
 昭和40年代、鋏に限らず、使い捨てても惜しくないような安価な物に押され、手づくりの品の良さが振り向かれなくなっていたことに、父は気づいていたのだろう。最盛期に10人いた職人は、髙桺さんが修業を始めた頃、3人に減っていた。

祖父の代から伝わる「覚え書き」

 作業場に入ったものの、「見て覚えろ」の職人の世界。父はもちろん、誰も何も教えてはくれない。地金を打つ、均す、しのぎを削る・・・職人を観察し、「動作の型」を何百回、何千回繰り返して身につけていった。
 鋏は大きさはもちろん、硬さや厚みまで、対になる刃を寸分違わず仕上げなくてはならない。しかも、すべての工程が手作業。やり直しがきかないため、ほんのひと研ぎ、ひと打ちの違いで使いものにならなくなる。修業時代、いちばん酷使したのは奥歯だったという。研ぎの工程では息をするだけで手先がぶれる。息を止めるために、知らず知らず奥歯を噛み締めるからだ。いつのまにか「手が決まる」ようになり、鋏がつくれるようになったとき、7年が過ぎていた。

祖父の代から伝わる「覚え書き」。いまでいう商品カタログにあたり、飴切鋏、硝子切鋏、花摘鋏など、多種多様な鋏の形、寸法、地金の重さなどの仕様が詳細に記されている。「小倉市安倍商店形」のように、注文品だった鋏の評判が口コミで広がり、定番になった鋏もある。予約待ちが続く博多鋏の製作に追われる日々だが、「ここにある鋏もつくっていきたい」という。

研げばいいったい

 頭より先に体で覚えられる歳で修業を始めればよかったのだろう。だが、二十歳過ぎでこの道に入った髙桺さんには、見ているだけではどうしてもわからないことがあった。思いきって「裏研ぎ」のやり方を尋ねた息子への父の返事は、「研げばいいったい」の一言だった。

 小学生の頃から向こう槌を打たされてきた父にとって、理屈を言葉で説明するのは難しいことだったのだろう。いまなら理解できるが、「頭にきてね、それからは、なぁんも訊かんごとした」。
 その問いに答えが見つかるまで十五年かかったという。「目釘半分」「つかとぎ」…父や職人が口にした言葉を心に留め、考え続け、納得のゆく答えを自力で見つけてきた。

研げば三代

 旅と思索を通して深く豊かな随筆を残した白洲正子は、手紙の達人でもあった。待ちわびた便りが届くと、鋏でていねいに封を切った。その鋏が博多鋏だった。
 没して10年。文筐の中でうっすらと錆を浮かべながら、鋏はいまも主の手に取られる日を待って微睡んでいる。
 正子の鋏が研ぎに出されることは、おそらくもうないが、髙栁さんの元には、祖父が鍛えた鋏が戻ってくることが珍しくない。
 「研げば三代」といわれる博多鋏だが、刃の表と裏の両方を研げる職人は数えるほど。あと十年もすれば修理もままならなくなるだろう。時折、習いたいと訪ねてくる若者もいるが、一日三挺がやっとの鋏づくり。「自分の代で終わり」「何とか残したい」・・・思いは揺れている。

折に触れて家伝の覚え書きを開く。研ぎ直すことを考えて「6寸の鋏なら6寸2分に仕上げる」のは、代々の決まり事。

変わり続ける「伝統工芸品」

「近頃、最初のところに戻ってきたような気がする」という。

 〝イメージ通りの鋏〟を求め、ここ3年、刃の根元3ミリ辺りをどうするかで「彷徨ってきた」という髙栁さん。「やっと抜け出せたかなぁと思うのは、ここひと月」と笑う。
 道具とは本来、オーダーメイドだった。例えば飴切鋏は、切れるだけではなくて、切った飴が飛ばなくてはいけない。そんなふうに、用途に応じて形が生み出され、工夫されてきた。試行錯誤が続くのは、博多鋏が飴切鋏のような鋏とは対極にある〝万能鋏〟だからだ。何でも切れるとは、用途が決まっていないことでもある。職人の裁量が許される鋏であることが、髙栁さんを試行させ、職人として鍛え上げてきた。
 思えば、こんなに「わからない」と言う職人さんも初めてだった。それは、「昔からそういうものだから」ではなく、いくらでも変わる可能性を秘めた「わからない」なのだった。鉄を熱し、鍛えて研いで、40年。「半年前とはつくり方が違う」「一年先は、また別のつくり方をしているかもしれない」—— 独学の人でなくては切り拓けなかった技の世界で、「伝統工芸品」博多鋏は、日々革新を続けている。

「高柳商店」の帳場に立つ髙桺晴一さん。

髙桺晴一(たかやなぎ・せいいち)略歴

昭和25年(1950) 福岡市博多区冷泉町に生まれる
昭和48年(1973) 西南学院大学法学部卒業。家業に入る
昭和58年(1983) 登録「(「うかんむり」にひらがなの「う」)」印博多鋏四代目となる
平成17年(2005) 福岡市「技能功労者」表彰