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博多鋏 職人・高栁晴一「鋏の物語」

海を越えて来た利器に
刀鍛冶の技を重ね、
国際都市を産土(うぶすな)として
生み出された博多鋏。
八百年の時を経て、
ただ一人となった職人が
火を造り、研ぎあげる、用の美。
守り抜く、その誇り。

鋏の歴史

鋏という道具

 記憶に浮かぶ最初の鋏といえば、祖母の裁縫箱の中にあった握り鋏だろうか。持ち手のところにきれいな水引のようなものが巻いてあって、チョキチョキという擬音がよく似合う道具だった。手提げ袋、仏壇周りの小物、お手玉・・・明治生まれの祖母は手先が器用で、傍らにはいつも小さな握り鋏があった。手伝いで持たされた布の端に向かって、ツウーッと走ってくる羅紗切り鋏の切っ先に見とれていたこともある。
 あまりに身近すぎて、言葉ではうまく説明できないものがある。鋏も、そのひとつだ。文房具から、生け花、洋裁、理美容などのプロ用まで、形も大きさも無数といえるほど多いが、同じ「刃物」でもナイフや包丁と決定的に違うのは、鋏が「二枚の刃をすり合わせて、てこの原理でものを切断する」(角川書店『日本語大事典』)点にある。日本初の国産鋏である博多鋏を見る前に、鋏の歴史を振り返ってみたい。

最古の鋏

 ヒトが最初につくり出した道具は刃物だった。石を打ち割って鋭く尖らせ、動物の肉を削ぎ取るのに使ったと考えられている。いまから250〜260万年前のことだ。鋏の登場はずっと遅い青銅器時代(紀元前3500年頃)。エジプトでピラミッドが建造されていた時代で、刃物としての歴史はかなり浅い。
  すり合わせる二枚の刃が実用の具となるには、金属であること、つまり、鉱物から金属をつくり出す技術が必要だったからだ。
 「てこの原理でものを切断する」鋏の形は、おおまかに分けて、一本の金属を折り曲げてつくるU字型(曲げた部分が支点)と、二本の金属を交差させ(ここが支点になる)、鋲などで継ぎ合わせるX字型がある。U字型の代表格は和裁用の握り鋏で、羅紗切り鋏をはじめとする洋鋏はX字型だ。
 紀元前千三百年から紀元前六百年頃のバビロニアの文献や『旧約聖書』には、羊毛を刈るための鋏が登場するが、鉄製であったという以外、どんなものだったかはわからない。現存する最古の鋏は、紀元前一千年紀の前半、古代ギリシャでつくられた青銅製のもので、形はU字型である。
 X字型では、紀元前二十七年の帝政ローマ時代のものが遺されており、羊毛や、羊毛で織った布の毛羽を刈ったり、女性の髪を切るために使われたらしい。

日本の鋏

峯ヶ塚古墳から出土した鋏。刃渡り11.0cm。峯ヶ塚古墳は、豪華な副葬品から大王級の陵墓と考えられている。(写真提供/羽曳野市教育委員会)
「和漢三才図絵」より。容飾具の項の「剪刀」の見出しに「はさみ」と読みがながふってある。

 日本では、五世紀末から六世紀初頭に築造された峯ヶ塚古墳(大阪府羽曳野市)から出土した鉄製の握り鋏が最古とされる。中国の歴史書に記された「倭の五王」の時代にあたるもので、環状部をもち、同じ形の鋏が漢から唐代の中国で発掘されている。
 X字型の鋏では、正倉院(七五六年創建)の御物中の金銅剪子が最も古い。銅に金メッキが施された鋏で、よく似たものが韓国の慶州で発見されている。これらのことから、日本の最初期の鋏は、中国から直接か朝鮮半島を経てもたらされたと考えられる。
 時代が下った鎌倉期のものとしては、北条政子が使った化粧道具中の鋏が知られる。菊の花が彫り込まれた美しいもので、現存最古の握り鋏としても貴重な品だ。
 江戸時代に入ると、徳川家康が愛用した握り鋏などが遺されているが、正徳二年(1712)に編まれた『和漢三才図会』では、諸国の物産を載せた〈土産〉の項に鋏の記録はなく、〈容飾具〉の中に「剪刀」とある。当時は、布地などのような長いものを切る際には、「剪刀」と呼ばれた包丁に似た刃物を使うのが一般的だった。直線断ちの和服には、曲線切りに向くX字型の鋏は不要だったからだ。「鋏は、泰平の世になって需要が減った刀鍛冶の余業としてつくられていたのでは」とは、『鋏』の著者・岡本誠之氏の分析である。鋏が庶民の生活用具となるのは寛政年間(1789〜1801)以降のことであり、そのほとんどはU字型の握り鋏だった。
 そんな中、室町時代に勃興した「生け花」の隆盛とともに普及していったのが花鋏である。
 花鋏には、華道で最も長い歴史をもつ池坊と、江戸時代に興った古流の二系統がある。池坊の花鋏は正倉院の金銅剪子の流れを汲み、古流は中国から渡来したX字型の鋏(唐鋏)の影響を受けたといわれる。この唐鋏の流れを継ぐのが、博多鋏であり、種子鋏である。
 花鋏の普及と前後して鋏の用途が広がり、諸職の求めに応じて多種多様な鋏が作られるようになる。博多や種子島などに加えて、播州(兵庫県南西部)、越後(新潟県)、美濃(岐阜県南部)、越前(福井県北部)といった刃物産地でも鋏がつくられるようになり、鋏を専業とする鍛冶が生まれたことも特筆される。

産業革命の波を受けて――近代の鋏

 1790年のイギリスに始まった産業革命と、それに続く19世紀は、自然科学の発達によって人間の暮らしが根本から変化した時代といえる。
 この時期、鋏も大きな変貌を遂げる。エポックとなったのが、1855年、イギリス人発明家ヘンリー・ベッセマーが開発した、銑鉄から鋼を大量生産する製法だった。これによって、あらゆる産業で機械化による大量生産の道が開かれる。鋏も例外ではなかった。
 同じ頃、幕末の動乱を経て、近代の夜明けを迎えた日本の鋏にも劇的な変化がもたらされる。文明開化の波が、日本人の装いを「ざん切り頭」と「洋服」に変えたからである。
 ざん切り頭は、現在の理美容鋏の原型を生み、洋服を着る日本人が増えるにつれて、仕立て職人には曲線切りに強い鋏が必需品になる。羅紗切り鋏が初めて輸入されたのが明治七年(1874)だったことは、ある意味、象徴的である。
 二年後の明治九年(1876)の「廃刀令」によって、刀鍛冶たちは厳しいリストラに追い込まれる。時代の趨勢とはいえ、需要が急減する中、逆に製造が追いつかないほどだった鋏に目を向ける職人が出てくるのは、自然な流れだろう。
 職人たちは、輸入鋏を原型としながら、地金に鋼を鍛接する日本刀の技術を駆使し、抜群の切れ味と耐久性を兼ね備えた鋏を生み出す。日本人の手に合わせたサイズや重さ・・・独自の工夫も加えられていった。こうして、輸入品を凌駕し、世界に誇る鋏王国の基礎を築いていくのである。

現代の鋏、鋏職人の現在

 大正から昭和の初めにかけて、中国や東南アジア等への輸出も行われたが、その勢いは次第に衰える。第一次世界大戦終結によるヨーロッパ諸国のアジア市場への復帰、関東大震災による経済混乱、軍事経済化等々、理由はさまざまあるが、決定的だったのが、昭和13年(1938)から終戦まで続いた「理髪鋏製造禁止令」だったという。
 戦後しばらくは辛うじて命脈を保った鋏づくりも、昭和40年(1965)頃を境に工業製品に押されていく。今日、私たちの身の回りにある鋏の大半は、量産された洋鋏である。裁縫、園芸、華道、料理、理美容や医療用など、用途に応じて形も大きさも無数にあり、素材も錆びにくいステンレス鋼を中心に、子ども向けのプラスチック、磁気に強いセラミックなど、さまざまである。
 そんな中で興味深いのは、鋏の原型であり、洋の東西を問わず使われたU字型の鋏が、長い時間を経て「和鋏」となり、今日、ほとんど日本だけで使われ続けていることだ。さらに言えば、「唐鋏」を源流とする博多鋏と種子鋏が、日本刀づくりに由来する「付け鋼」という最高峰の鍛冶技術を守って数百年間、手づくりされ続けてきた価値ははかり知れない。
 優れた技術を取り入れ、昇華し、モノとしてかたちにする鋏鍛冶の技はいま、途絶を目前にしている。全国を見渡しても、火造り(火を使う鍛造・鍛接工程)から仕上げまでの全工程を手作業できる鋏職人は、指折り数えて片手で足りる。失われようとしているのは技ではない。〝日本遺産〟とも呼ぶべき、知の財である。

髙桺晴一(たかやなぎ・せいいち)略歴

昭和25年(1950) 福岡市博多区冷泉町に生まれる
昭和48年(1973) 西南学院大学法学部卒業。家業に入る
昭和58年(1983) 登録「(「うかんむり」にひらがなの「う」)」印博多鋏四代目となる
平成17年(2005) 福岡市「技能功労者」表彰