筒井時正
玩具花火製造所
花火師三代記

三町合併により誕生した都市

 稲穂が風に揺れている。矢部川の支流、飯江川沿いの細道。茅の間を車でゆっくり走ると、右斜めの小高い丘に「筒井時正玩具花火製造所」が見える。花火の町として有名な福岡県みやま市を初めて訪れたのは、まだ風が冷たい初春の頃。有明海を一望できる清水山、標高405メートルの最高峰、御牧山が見守るのどかな田園地帯には、露地栽培の葡萄畑や豆畑などが広がっていた。
 一級河川矢部川を挟んで、筑後市、八女市と、市南東部では熊本県南関町とも隣接するみやま市は、福岡市の南約50キロに位置する人口約40,000人の都市。平成19年1月29日、旧山門郡の瀬高町、山川町と、旧三池郡の高田町が合併して誕生したばかりということもあり、みやま市としての歴史は浅い。
 しかしながら、三町には古くから筑後地方を代表する農産業の基盤が根付いている。海苔の養殖が盛んな有明海に面する河口は、かつて水上交通路として利用され、陸上交通の要衝として栄えた。花火製造が盛んな高田町、古墳や卑弥呼伝説が残る山川町や瀬高町など歴史と自然が共存し残っている。

飯江川の流れ。

竹飯の牡丹長者伝説

 飯江川の右岸に位置する高田町の竹飯地区は、今からおよそ1100年前、約240戸を有する大集落だった。なかでも海津地区から飯江川を上流に遡ること約一キロ。東部に広がるなだらかな台地一帯を「長者原」といい、村一番の肥沃な耕作地として経済の基盤を築いてきた歴史を持つ。
 その長者原一帯を支配していたのが、飯江山に舞鶴城を築いた豪族「牡丹長者」だったという伝説が古文書に記されている。竹飯地区は、九州の陸上交通の要衡として駅舎や駅馬が設けられた地。一方、海津は、有明海を中心とした交易港として繁栄した。これらを統括して治めていたのが、竹飯の長者原に大屋敷を構える牡丹長者であったと。土塀の長さから想像するに、相当の支配力を発揮していたと推測される。
 飯江川からは、弥生時代後期とみられる弥生式土器などが数多く出土されている。山と海、両方の恵みによって支えられた民衆の暮らしは、大変豊かであったことだろう。

高台に建つ筒井家の前に広がる、豊かな田圃の風景。

筑後の火薬方、筒井一族

 文禄元年。豊臣秀吉に従い朝鮮出兵した柳川藩主立花宗茂公が、竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火を奉納した。それがみやま市の花火製造業の祖といわれている。筑後に火薬方を置くようにとの命が下された際、白羽の矢が立ったのがこの地の豪族、筒井一族であった。今、花火稼業を営む筒井家は、その末裔。市内に七社ある花火製造業者のうち、六社が竹飯に集中している点からも十分に納得のいく説である。
 竹飯の花火製造の祖、長者原の本家初代は、筒井駒太郎である。花火に魅せられた駒太郎は、93歳まで長生きした。本家を継いだのは、長男の筒井福松。次男の筒井力は分家として独立した。この力の元で修行したのが筒井時正である。かつては玩具花火ではなく打ち上げ専門であった。当時「筑後屋」と「筒井時正」前身の「筒井煙火製作所」「筒井力煙火」の三社があり、商売敵の兄弟は喧嘩が絶えなかった。当時はまだ引火しやすい危険な火薬が多く、事故も多かったという。「何人も死んだ。ドーンちいうたら爆発。やっぱ平和やなかと、花火は」と語るのは、二代目の正穂さんである。農業の傍ら花火製造を行ってきた筒井一族だったが、戦時中は和菓子屋、自転車屋など転々と職を変え、生き延びた。

花火製造所を訪ねて

 葡萄畑に隣接する敷地に点在する、白い箱型の建物群。真昼のそこはしんと静まり返り、物音ひとつしない。今にも物陰から拳銃を持ったスパイが顔を出しそうな気配に辺りを伺っていると、目の前に雑種犬が1匹。その奥から煤まみれの仕事着の若者が、人懐っこい笑顔をうかべ迎えてくれた。彼が三代目筒井時正の良太さんである。
 「筒井時正玩具花火製造所」は、日本で三社しかない線香花火を製造する玩具花火屋として約200余年の歴史を持つ。線香花火は、スボ手牡丹と長手牡丹の二種があり、前者は、藁スボの先に火薬を付けた素朴なタイプで歴史も古い。ただし、藁スボの供給が困難になると、和紙の紙縒りに火薬を挟む後者が数を伸ばしていく。実は、今や線香花火のルーツともいえるスボ手牡丹を製造するのは、全国でも『筒井時正』だけとなった。一度は途絶えたと誰もが思っていたが、その伝統の火は絶えることなく、若き花火師の腕に受け継がれていたのである。

白い壁面で仕切られた迷路のような筒井時正玩具製造所。

八女・隈本火工の修行時代

 昭和30年代、「喜びも悲しみも幾歳月」という灯台守の家族を描いた映画が大ヒットした。戦争や貧困を乗り越え、凛として逞しく生きる日本人の姿がスクリーンいっぱいに描き出されたのを覚えている。闇夜を照らす灯台の灯は、線香花火のように小さくとも大きな希望をたたえ、あの頃の日本を照らしたのだ。
 昭和48年(1973)、良太さんは、二代目の正穂さんと勝子さんの長男として誕生した。兄弟は、弟の研氏さんと妹の利華さんと三人。研氏さんはサラリーマンになり、利華さんは八女のいちご農家に嫁いだ。
 子どもの頃から花火工場が遊び場だった。約10人の内職さんが「アメリカに輸出する鼠花火ば、じゃんじゃん作っていた」と良太さん。子どもの頃は後を継ぐ気はなかったが、「高校の時にやっぱり継がないかんかな。本家の長男やし、自分の使命かなあ」と覚悟を決めたという。それでも一度はサラリーマンをしたいと、高校卒業後、愛知県の自動車メーカーに就職した。3年後、福岡に戻り、妻の今日子さんと出会い、24歳で結婚。今では三男一女の父である。

天気が良すぎると火薬にひびが入るため、遮光カーテンを張る。
花火製造所は、弟と妹の三人の遊び場だった。

竹飯八幡宮の「稚児風流」で踊った5歳の良太さん(左)と弟の研氏さん。

製造所の看板犬マリと仔犬が心を和ませてくれる。

線香花火に光を見出す

 帰福した良太さんは、2代目の正穂さんの兄弟が営む八女の「隈本火工」に修行に行く。廃業の可能性を想定し、今のうちに線香花火の技術を伝授しておいた方がいいだろうという話が一族の間で交わされたのだ。3年後、廃業と同時に「あんた達が全部せんねと言われて、撚り手さんも一緒に線香花火を引き継いだ」。
 しかし、肝心の火薬の割合を記録した配合表だけは譲り受けることが叶わなかった。「閻魔帳と呼んでいる配合表がないので、ある程度までは分かっとっばって、そっから先が試行錯誤でした」。納得いくものができるまで、実に10年の歳月を要した。
 ある日、東京のデザイナーからオリジナルの線香花火の注文が入った。当時は製造だけで手一杯。販売に関しては、ずぶの素人だった。しかし、その線香花火が銀座の有名デパートに華々しく並んでいるのをテレビで見た時、「衝撃がありました。中身はうちなのに、外側が違う。正直、悔しかった」。
 少子化により玩具花火の需要は減る一方。本気で生き残るためには、大人も楽しめる線香花火の裾野を広げることが必要ではないかと思い立つ。気がつけば線香花火を作り始めて、すでに15年が経過していた。

2011年12月、スボ手牡丹の作業中に。顔を揃えると、自然と笑いが生まれる。
左から江崎さん、三代目良太さん、妻の今日子さん、鍋田さん、母親の勝子さん、鍋田さん、二代目の正穂さん。

花火にかける親子の火花

 線香花火ほど、日本特有の“もったいない”の精神を体現する花火はないと良太さんは言う。稲藁を利用した藁スボ、牛皮を溶かして作る膠、松の根から作る松煙など、そのリサイクル精神は学ぶべき点が多い。通常の洋紙ではなく、八女の手漉き和紙を使った上質な線香花火を作ろうと思ったのは、そんな昔に思いを馳せてのことだった。今でこそ紙はパルプ工場で製造されるが、昔はすべて手漉き和紙だったはず。
 しかし、商品化に向けて、やれデザインだホームページだと奔走する3代目夫婦に2代目は猛反対。製造元はあくまで作るだけ。販売は町の駄菓子屋や玩具屋など4〜5軒の問屋を通すのが業界の常識であった。それをあっさり飛び越え、しかも玩具の域を遥かに超えた工芸品並みの価格設定。「私は売れんなら何にもならんち思う。でも良太達は売れんでもいいち言う」。
 そんな正穂さんは、無類の「花火きちがい」。妻の勝子さんも、「どうしたって花火が好きちゅう点では誰にも負けない。その代わり、昼ご飯の時は手ぐらい洗えばよかとに、フウッちすると火薬が飛ぶくらい」と笑顔をうかべる。戦後、景気が落ち込む中、昔の花火を知らない子ども達に「こんがとが面白かか、どげんか」と調査しながら、アイデア抜群の花火を次々と送り出してきた。花火は「我がで花を作って遊ばるっ」、そこが魅力。和紙を撚る時は、「硬く、柔く、程良く」と経験から育まれた職人の手の加減を叩き込まれたという。 
 「先代、時正の名前ば良太に譲った」のは、平成22年(2010)9月のこと。「初代からの屋号やけん、一生その名前で行け」と息子に告げた。それに応えるように、良太さんは八女和紙を用いた高級線香花火を作り上げた。しかし、それがまた気にくわない。自ら譲り渡したといえ、「何かそんやり方は。段取りの悪か」とすぐに喧嘩腰になってしまう。チャキチャキと敏捷に動き回る正穂さんに対して、良太さんは至ってマイペース。勝子さんの話では、「先代の時正さんは、寡黙でこらえる気持ちがあって真面目な人だった」というから、血は確実に受け継がれているに違いない。

昭和初期の『筒井時正玩具花火製造所』。
しょうろう流し用の灯明「蓮華」を東北大震災の被災地に送るため試作する二代目の正穂さんと勝子さん。
手持ち花火に詰めた火薬を干す。

一本一本。大切に仕上げたスボ手牡丹を天日干しする。

線香花火の世界を生き抜く

 花火製造所は年中忙しい。現在、線香花火や問屋からの注文商品を合わせると約30種類の花火を製造中。比較的、手が空く10、11月はスボ手牡丹の材料の手配や下準備に追われ、12月になるとスボ手牡丹の製造が本格化し、それが3月下旬頃まで続く。平行して手持ち花火の製造も行うため、毎年5月は問屋への納期に追われ、梅雨明けと同時に、今度は販売に走る。
 製作所によって光や色の特徴が出やすい打ち上げ花火と違って、日本古来の線香花火は「答えがない世界やけん、今だに分からん」と良太さんは言う。「線香花火は、撚り手さんの技、火薬の配合、火をつけて上げる人の技、その三位一体で花が咲く。松煙とか膠とか自然からなる光やし、配合に終わりはない。空気の流れによっても毎回咲き方は違うし、そん時、そん時の出合い」。
 住環境の変化に伴い、花火を楽しむ環境を探すのも困難な時代だが、悲観しても始まらない。「線香花火で世に出ることができたので、これからは玩具花火の普及に繋げていきたい」と語る3代目の表情に自信がのぞく。「線香花火には、すごい世界があるんです。小宇宙があってビッグバンみたいに星が飛び出す、そういう大宇宙を縮小した見方もできると思う。人それぞれに花火には思いがあって、物語がある。蝋燭の火みたいに人生の持ち時間や運命は決まっとるんやろうなと。線香花火を作りながら、そういう事を学んどるとかもしれません」。
 祖先や両親、今日子さんと子ども達がいるから、自分が3代目として立っていられる。誰一人、何一つ欠けても、今はない。そのことを胸に刻み、良太さんは来年も再来年も、一本の線香花火に気持ちを込める。

家族と、内職さんが力を合わせて 繋いできた花火づくり

3代目に嫁いだ今日子さんも大きな戦力に。

今日子さんを気遣う2代目の嫁、勝子さん。嫁同士で力合わせて支えあう。

「筒井時正玩具花火製造所」の看板犬マリの存在に心和む。

皆の仕事に目を光らせ、筒井の花火へと導く総監督の2代目、正穂さん。

熟練の手さばきを見せる勝子さん。淡々と正確に手を動かす。

筒井良太(つつい・りょうた)略歴

昭和48年(1973) 福岡県みやま市に生まれる
平成 3 年(1991) 愛知県の自動車会社に就職
平成 4 年(1992) 八女の花火製造所「隈本火工」に修行に入る
平成 7 年(1995) 実家に戻り、3代目として後を継ぐ
平成22年(2010) 3代目筒井時正を襲名。
         新製品「筒井時正線香花火」を商品化