配合する

ジリジリと
指先に伝わる
火花のいのち。
幼い日の
線香花火の記憶は、
いくつになっても
おもちゃ色に
輝いている。

庶民の夢と平和の象徴

太古、人間は火を手にした

 暗闇と静寂に包まれた早朝。冷気に身を縮め、寝袋から這い出し、ガスバーナーに手を伸ばす。軍手の指先に力を込め、点火。青白い炎が勢いよく上がる。火のありがたみを実感するのはこんな時だ。
 あらゆる交信が電波となり、地球の裏側と瞬時に繋がることができる現代。この文明社会の礎には、火の存在があった。弱肉強食の原理からすれば、獣より弱い人間はあっけなく絶滅したはずである。しかし、私たち祖先は、火を手に入れた。それは獰猛な獣さえも怖じけづく魔法の道具。おまけに闇夜を照らし、暖をとることもできるのだ。以来、私たち人間は、火と共に進化の扉を拓いてゆく。
 古来、火と祈祷を司る者は選ばれし指導者だった。『魏志倭人伝』には、火によって吉凶を占うという記述が登場する。神に祈りを捧げる時、人は必ず火を焚き、身を清め、天に向かい煙を上げた。火を神聖なものとして崇める気持ちは、古も今も変わらない。
 「旅」の語源のひとつに、「他火」がある。全国を歩いた民族学者の宮本常一氏は、これを他人の囲炉裏の火にあたり、一宿一飯の恩義に預かることと解釈した。赤々と燃える薪の炎が、肩を寄せ合いながら生きてきた原始の記憶を呼び覚ますのだろうか。
 火に具わる原始的な魅力、いや魔力といってもいい。火への畏敬と憧憬の念は、太古から私達の中に息づいている。火を前にする時、私達の遺伝子は躍動に満ち、生命体としての輝きを取り戻すのだ。

筒井時正玩具花火製造所 三代目・筒井良太

花火のルーツ、狼煙

 もし無人島に流されたとして助けを求めるとしたら、私達は迷わず火をおこし、煙を上げるだろう。花火のルーツは、この狼煙といわれている。紀元前211年、秦の始皇帝は東西4,000キロメートルもの万里の長城を建設した。その際、遊牧民の侵入を防ぐため、烽台を設け、昼は煙を上げ、夜は薪を燃やしたという。その時に火花がよく上がるように、薪に振りかけたのが硝石であった。
 一方、日本で狼煙が最初に登場したのは、天智天皇三年(664)の頃である。『日本書紀』をひもとくと、唐との関係が悪化する中、筑紫・壱岐・対馬の3ヶ所に防人と烽を設置し、狼煙を上げたという記述がある。ちなみに蓬や茅などの草木を燻し、昼は煙、夜は炎を上げ、昼夜問わず見守りを続けたという記録が残っている。

和製硝石のはじまり

※薪に狼の糞を混ぜ、燃えやすくしたのが語源。

 火薬の主原料、硝石は、中国の山東省やインドが原産地。なかでも中国硝石は、火薬の配合から火器の発明に至る発展を遂げ、アラビア人の手によってシルクロードを経由し、ヨーロッパへ伝播した。
 実は、硝石そのものの発見は、漢の時代(紀元前202〜紀元225)といわれている。8世紀後半には、すでに道教の僧らが硝石と硫黄、木炭を混ぜた黒色火薬を発明。当時は、漢方薬として、硝石はリウマチや泌尿器系に、硫黄は皮膚病や婦人科の病気に、また木炭は古来より万病にいいとされていた。火薬を使った武器が登場するのは、その三百年後、宋の時代に入ってからのことである。
 天文12年(1543)8月、種子島に鉄砲が伝来。ついに、日本に黒色火薬が上陸する。文禄元年(1592年)、慶長二年(1597)の豊臣秀吉による朝鮮出兵をきっかけに、和製硝石の研究が全国で本格的に勧められたと考えられる。
 天然の硝石がない日本では、苦肉の策で様々な製造法がとられた。嘉永七年(1854)の『硝石製造弁』には、刻んだ干し草に魚のはらわた,池の腐った水、人や動物の糞尿などの腐敗物を振りかけ、人工的に硝石分を増やすという方法が出てくる。美しく華やかな花火の誕生までには、実に様々な試行錯誤があったといえよう。

日本と世界の花火のはじまり

 火薬は、観賞用としてもその裾野を広げていく。ヨーロッパでは、1300年代後半、イタリアのフィレンツェで打ち上げ花火を楽しんだとの説がある。では、我が国初の花火鑑賞は、一体いつだろう。
 諸説あるが、歴史が古い順に紹介すると、種子島伝来から15年後の1558年。手筒花火発祥の地として知られる愛知県豊橋市の吉田神社に残る『三河国古老伝』に、この年、奉納花火があったと記されている。また近年では、天正17年(1589)に、伊達政宗が米沢城で「唐人」が献じた花火を鑑賞したという古文書の説も有力視されている。
 だが一般に知られるのは、『駿府政事録』による徳川家康説である。慶長18年(1613)夏、平戸に商館を開いた英国人、ジョン・セーリスが国王の命により駿府城の家康の元を訪れ、竹筒に黒色火薬を詰める「立火」を披露している。これは、竹筒に黒色火薬をつめて、火の粉を吹き出させるものだったという。当時、南蛮貿易は全盛期。イギリス、オランダ、ポルトガルなどから火薬を買い込んでいた時代でもあった。

花火を育てた江戸の町人

 宵越しの金は持たねえ、粋な江戸っ子。闇夜をパッと照らして散る、瞬間芸術の花火が、好奇心旺盛な彼らの心をつかんだのも当然の流れといえるだろう。慶長19年(1614)には、線香花火や鼠花火が流行。大川には、毎夜、納涼船がこぎ出し、大商人が自前の花火を上げさせた。
 度重なる火災に頭を悩ませる幕府が、再三、花火禁止令を出したにも関わらず花火熱は上がる一方。追い打ちをかけるように、万治2年(1659)には、現・奈良県の大和篠原村から出稼ぎに来た弥兵衛が、葦の管に火薬を練って小さな玉を作り、「火の花」という名で売り出したところ大評判に。これが耳馴染みのある掛け声「た〜まや〜、か〜ぎや〜」で知られる日本最古の花火会社「鍵屋」である。
 享保18年(1733)、八代将軍吉宗は、前年の大飢饉とコレラによる死者の霊を弔う水神祭を行い、大川端で花火を上げた。これが隅田川花火大会の前進、両国の川開きの始まりである。この時期、大名お抱えの火術家たちは狼煙から花火への方向転換を図り、一方で「鍵屋」の花火師も狼煙を手本に打ち上げ花火の研究に挑むなど、日本の花火界は百花繚乱の時を迎えていた。

火をつけて香炉に立てた姿が線香のようだったため、「線香花火」と命名された。『絵本十寸鏡』より十寸鏡。
歌川広重作「子供遊花火の戯」(江戸時代末期) 資料提供:墨田区立緑図書館

和火から洋火へ、そして戦争勃発

 もちろん、花火の隆盛は江戸に限った話ではない。徳川家のお膝元として多くの花火師を産出した愛知を始め、外国と交易があった九州、大阪の堺などでも盛んだった。とりわけ九州は、長崎から中国、オランダ伝来の花火製造技術を礎に発展を遂げている。
 明治期には、外国からアルミニウムやマグネシウムなどが輸入され、橙一色の「和火」から色とりどりの華やかな「洋火」へと移行し、現在の花火へと躍進を遂げた。
 その波に乗り、大正・昭和初期には各地で豪華な花火大会が開催されたが、時代は戦争へと突入。平和を象徴する花火の技術が発煙筒などの軍用品製造に余儀なくされたのだ。この長く辛い体験を経て、迎えた終戦。昭和22年(1947)、日本国憲法発布記念として、戦後初の花火が皇居前に打ち上げられた。その音、色彩、火薬の匂いまでもが、人々の心に懐しさを伴い沁み入ったことだろう。

遺したい、伝統の火

 玩具花火の規制が増す昨今、ライフスタイルの変遷に伴い、花火の需要は伸び悩んでいる。線香花火に限っていえば、まずは藁スボや膠、松煙という天然素材の確保に頭をいためる。昔ながらの製法を守るためには、一定の量をコンスタントに確保しなくてはならないのだ。時代と共に姿を消しつつある希少な素材。それらを手に入れ、質を保持する労力は計りしれない。その上、安価な中国産の登場により、コスト面でも厳しい競争を強いられている。純国産品の線香花火の命は、今や風前の灯といえるだろう。
 しかしながら、このような状況にあっても日本古来の伝統の火を守り継いでいこうと踏ん張る花火職人がいる。スボ手牡丹という線香花火を日本で唯一製造する『筒井時正玩具花火製造所』もそのひとつ。朝から晩まで真っ黒な火薬にまみれ、一瞬の花を咲かせるために静かなる闘志を燃やす。彼らの手から生み出される火。それは、どんなに小さくとも私達の心を照らしてやまない。

なつかしい「平玉火薬」
花火の一種で、紙の上に少量の火薬を盛り付け、打撃を与えると火花と破裂音、煙を発生する。

筒井良太(つつい・りょうた)略歴

昭和48年(1973) 福岡県みやま市に生まれる
平成 3 年(1991) 愛知県の自動車会社に就職
平成 4 年(1992) 八女の花火製造所「隈本火工」に修行に入る
平成 7 年(1995) 実家に戻り、3代目として後を継ぐ
平成22年(2010) 3代目筒井時正を襲名。
         新製品「筒井時正線香花火」を商品化