蔦の中の小さな工房

出会い

 人は時として「一生を決める旅」をすることがある。横山秀樹さんにとっては、23歳の春の倉敷への旅がそうだった。
 倉敷民藝館で、一緒に旅をした友人にガラスの説明をしていた横山さんに、「そんなに興味があるなら行ってみなさい」と声をかけてくれたのが館長の外村吉之介氏(故人)だった。勧められた先が、「倉敷ガラス」の創始者で、日本のスタジオ・グラスの草分けでもある小谷眞三氏の工房だった。
 そこで目にしたガラス制作の実際、わずか数分のうちにかたちになる勝負の早さに惹かれ、飛騨高山の家庭で使われていた小谷さんのガラス器を見て心を決める。しかし、工房内は40℃、窯の前は100℃を超える仕事の苛酷さに恐れをなす若者が後を絶たず、それに懲りた小谷さんは40人以上の入門希望者を断わり続けていた。
 勤務先があった東京から、あるいは飯塚に帰省した折、日帰りで工房に通い続けて4年半が過ぎた27歳の秋、仕事を辞め、半ば押し掛けで倉敷に移り住む。朝8時から夕方5時まで花筵をつくる工場で働き、退社時間になると着替えて工房に直行、午前1時まで仕事場で過ごす日々が始まった。
 小谷さんは最初の半年間、ほとんど口もきいてくれなかったという。何もわからないまま、「はい、交代」と言って師匠が引き上げた後、坩堝に残ったわずかなガラスを相手に試行錯誤する毎日。それが1年続いた頃、「何となくやっていけそう気持ちになった」と振り返る。

倉敷を代表する美術館「大原美術館」。横山さんの工房を覆う蔦は、ここから種を分けてもらって育てた。倉敷は「用の美」を掲げた「民藝」にゆかりの深いまち。外村吉之介氏をはじめとする手仕事の目利きが、優れたつくり手を育ててきた。
昭和54年(1979)11月、粒江(倉敷市)の工房で、小谷眞三氏と。工場に頼らず、個人が自分のアトリエで創作活動を行う「スタジオ・グラス」は1960年代のアメリカで提唱され、日本では1980年代に本格化する。昭和5年(1930)、岡山県井原市に生まれた小谷氏は、昭和39年(1964)に「倉敷ガラス」の前身である「水島ガラス」を創業。以来、現在まで、日本のスタジオ・グラスのパイオニアとして活躍している。

独立を機に

初めて窯を築いた船穂町の建物。火を使うことを許可してくれる大家さんを探すのが大変だった。
新婚時代を過ごし、子育てもした思い出の家。外観は当時のままだ。

 3年目に船穂町(現・倉敷市)に持った初めての仕事場は、天井が低く、熱抜きの小屋根もなかった。「日本でいちばん熱い工房」といわれたこの窯に次いで、昭和59年(1984)には飯塚にも窯を築き、行き来しながら制作を続けた。独立したのは、弟子入りから10年後の昭和63年(1988)。平成6年(1994)には、活動の中心を高齢になった母の住む飯塚に移した。

素材の力を信じて

 飯塚の工房の窯を初めて見た人は、大抵、その姿に驚く。積み上げた耐火レンガと坩堝を耐火モルタルが包み、低音で唸るバーナーが、モルタルの隙間から時折、黒煙を吐き出す。『風の谷のナウシカ』に登場する王蟲にも似たこの窯から、あの美しいガラスが生まれることが信じられないくらいだ。
 何人かのアシスタントを使い、空調のきいたスタジオで、自動温度設定の窯を使って作業するのが当たり前の時代に、温度計さえない。横山さんは、ひと夏で6〜7キロ体重が落ちる工房で、すべての制作工程を一人でこなす。「毎朝、窯に火を入れて、毎晩火を落とす」と聞いて呆れてしまう同業者も多い。こんな効率の悪いやり方をしているのは「師匠と僕だけ」と笑うが、だからこそ生み出せるものがあるのではないだろうか。
 たとえば、2キロもの生地を使ってつくる「壜」だ。坩堝に吹き竿を突き刺し、真っ赤に燃える生地を巻き付け、型に吹き入れる。型から抜き、吹き竿ごと持ち上げたら、そこから先は、生地の自重と地球の重力にゆだねるかのような動きだ。

 流れ固まろうとする生地はポンテ竿の先端を呑みこんで、深い跡を刻んでいく。灼熱を得て液体となり、瞬時に固化していくガラスという素材の本質が凝縮されていく。きっとこれが、ガラスの〝なりたかったかたち〟なのだ。
 逃げない、こびない、嘘をつかない。汗で濡れる横山さんの背中に、「一途」という言葉が重なっていく。
 2年ぶりという倉敷での個展会場で、横山さんを独立前から見続けてきたという友人の言葉を思い出す。「一目見て、『あ、超えた!』と感じた。コップひとつとっても、洗練されて〝横山秀樹のガラス〟になっている。何かが吹っ切れて、自信をストレートに出せるようになったんじゃないかな。カッコいいねぇ」
 広島の小さなギャラリーでも、初日から次々とドアが開いた。「シリーズで揃えているから、今回はこれ」と声がする。「この器には絶対、素麺。早く帰ってつくってよ」と、妻とおぼしき女性に頼んでいる男性・・・。日本のあちこちで、横山さんのガラスを待っている人がいる。
 2000年代に入ってからは、デンマークのコペンハーゲンを皮切りに、海外での活動も続いている。ロンドンのギャラリー「egg」のオーナーのアイデアからグレーのガラスを〝発見〟したり、イタリアのファッション・デザイナー、ダニエラ・グレジスにギャラリーを飾る作品を提供するなど、転機となる出会いにも恵まれた。
 経歴や誰に習ったかといった〝外側〟はまったく通用せず、ただ作品だけで評価される世界のステージは望むところだ。「展示するだけでなく、現地で制作してみたい」。異国の空気や光を吸って、横山さんはどんなガラスを生み出すのだろう。

ガラス生地を熔かす「坩堝」。1600℃まで耐えるが、急激な温度変化には滅法弱い。

体と心、命にしたがって

 数年前に大改修した窯は、相変わらずじゃじゃ馬のように扱いにくい。思うように温度が上がらず、一個も吹けずじまいの日もある。坩堝は前触れもなく割れ、交換できる部品も修理工場もない〝絶滅危惧種〟に等しいバーナーは、組み立てから自力でやるしかない。だが、「思い通りになる窯だったら、退屈でとっくの昔にやめていたね、きっと」と言う表情は、むしろ楽しげだ。
 「へこたれない。」と書き出された個展の案内状には、こう記されていた。

この頼れる相棒とともに
今ある体と心、命にしたがって
横山秀樹の手吹硝子に挑んでいきたい。
燃える硝子に全身全霊
気持ちを込めて、ひとつ、ひとつ。  
さぁ、今日の窯は、
自分に何を吹かせてくれるだろう。


              
 「いいガラス器は光を食べている」。民藝通として知られる女優さんが何かの取材で語っていた言葉だ。長い間、胸の底にあったが、初めて横山さんの個展を訪ねたとき、「食べるのではない。光を呼吸するのだ」と感じた。
 ギャラリーの窓から差し込む光を受けとめ、やわらかな影を発していたそのコップはいま、わが家の台所で朝の光を湛えている。これが幸せでなくて、何だろう。

朝六時、バーナーに点火。窯が動き出す。今日も、よろしく。

1.点火前の窯。前夜、火を落とした後の余熱で徐冷するため、トタン板が何枚も重ねられている。

2.前日に仕上げた作品を徐冷窯から取り出す。

3.段ボール箱に移して徐冷していた作品を確認する。

4.バーナーに点火し、窯の加熱を始める。バーナーは、い草の染色に使われていたものを自分で手入れしながら使っている。

5.2〜3時間後、窯が赤く発光して炎が上がるくらいまで温度が上がったら、坩堝のヒビがないことを確かめて、ガラス生地を投入する。

6.窯の調子を見ながら空気の量を微調整し、さらに6〜7時間かけて、窯の温度を1300℃前後までゆっくり上げていく。生地の状態を見て、吹き作業を始める。

横山秀樹(よこやま・ひでき)略歴

昭和25年(1950) 3月2日、福岡県飯塚市に生まれる
昭和47年(1972) 飯塚市立幸袋小学校、同飯塚第一中学校、福岡県立嘉穂高等学校を経て、福岡大学商学部卒業。          民芸品店「備後屋」(東京)に入社
昭和48年(1973) 倉敷にて倉敷ガラス創業者・小谷眞三氏のガラスに出会う
昭和52年(1977) 小谷眞三氏に師事する
昭和56年(1981) 岡山県船穂町(現・岡山県倉敷市船穂町)に窯を築く
昭和59年(1983) 福岡県飯塚市に窯を築く
昭和63年(1987)
独立。クラフト&ギャラリー幹(倉敷市)にて初の個展を開く。
以後、現在まで、倉敷、東京、大阪、名古屋、京都、神戸、福岡、人吉、秋田、千葉、金沢、広島等、全国各地のギャラリー・百貨店・クラフトショップで個展を開催。平成6年(1994)に飯塚に本拠を移し、平成14年(2002)からは、コペンハーゲン(デンマーク)の日本国大使館を皮切りに、フルーム(イギリス)、ロンドン(イギリス)、ベルガモ(イタリア)など、海外でも個展を開催