吹く

坩堝のなかで溶けているのは、
硝子という名の夢、
それとも祈りだろうか。

生き物のような窯と格闘し、
挑みかかってくる生地に
まるごとの精神と肉体で
立ち向かう。
灼熱をくぐり抜けて
この世に現れる光に
かたちを与え、
いのちを吹き込むために。

ガラス ─ 五千年の時を超えて

 窓ガラス、コップ、鏡、レンズ、プラズマテレビ、携帯電話… 日常の品から最新機器まで、私たちは多種多様なガラスに囲まれて暮らしている。ガラスのない生活は想像できないほどだ。
 隕石や黒曜石を除けば、ガラスは自然には存在しない。
 人がつくり出した最初の素材であり、光を透かし、煌めかせる美しさと優れた特性で、絶えず新しい技術と用途を生み続けてきたガラスの遥かな歩みをたどってみよう。

ガラスの起源伝説

 ガラスの主原料は石英を細かく砕いた珪砂という砂である。主成分は二酸化珪素で、シリカ、珪酸とも呼ばれる。一般的なガラスは、この珪砂をベースに、珪砂を熔かしやすくする媒材としてソーダ灰(炭酸ナトリウム)と石灰(炭酸カルシウム)を混ぜて熔かし、成形してつくる。ソーダ灰の代わりに酸化カリウムや酸化鉛を使ったものが、鉛ガラス(クリスタルガラス)である。
 「その昔、天然ソーダの商人がベールス川(現・ナーマン川)の河口近くの海岸で竃を築こうとしたが、大鍋を支えられる石がなかった。そこで、石の代わりに船荷のソーダ塊を並べて煮炊きしたところ、熱で熔けたソーダ塊と浜辺の白砂が混ざり合い、見たことのない半透明の液体が幾筋も流れ出し、ガラスが生まれた」
 紀元一世紀のローマの博物学者プリニウスは、大著『博物誌』でガラスの起源をこう記している。
 伝説の地は現在のイスラエル北部、レバノン国境に近いアッコという小さな町の郊外である。この地の白砂が良質の珪砂であり、ガラスの前段階ともいえる釉薬状の素材が、同じように生成できることが実証されているという。

ガラス製造の始まり

 とはいえ、現在では、世界で最初にガラスがつくられたのは、約五千年前のメソポタミアだったという説が有力である。
 「肥沃な三日月地帯」ともいわれるこの地域からは、世界最古のガラスとされるガラス棒(紀元前24世紀頃)をはじめ、考古学的に貴重なガラスの資料が次々と発見されている。また、チグリス河畔のタール・ウマール遺跡から出土したと伝わる紀元前18世紀末の粘土板には、当時すでに高度な化学知識によって、この地でガラスの着色やクリスタルガラスの製造が行われていたことが記されていた。

ガラス容器の出現

コア・ガラス技法による「把手付壺」 エジプト新王国第18王朝(紀元前14世紀) 高さ6.1cm×径3.4cm 岡山市立オリエント美術館蔵

 ガラスの器が初めて出現したのも、紀元前16世紀のメソポタミアだった。技術は少し遅れてエジプトにも伝わり、コア・グラス(粘土の型に熔かしたガラスを巻きつけ、冷やした後に中の粘土をかき出す技法)やモザイクガラス(外型に色ガラスを並べ、内型を上から重ねあわせて、型のまま加熱成形する技法)、型押し(粘土で型をつくり、熔かしたガラスを押しつけて成形する技法)などがさかんに行われた。当時のガラスは不透明な色ガラスを使った小型のものがほとんどで、一個一個、型をつくって成形するため量産できず、宝石や貴石のように珍重された。

吹きガラス技法の発明

 紀元前一世紀の中頃、ローマ帝国下のシリアで一大事件が起きる。今日まで続く「吹きガラス技法」の発明である。熔かしたガラスを鉄パイプの先に巻き取り、もう一方の端から息を吹き込んで生地を膨らませて成形するこの技法によって、自由なかたちと大きさのガラスづくりが初めて可能になった。
 メソポタミアで数世紀前から始まっていた透明ガラスの技術も取り込んだローマン・グラスは、わずか数十年でガラスを普段使いの品に変え、ローマ帝国の広大な流通網にのって世界各地に広がっていく。吹きガラスの登場は、つくり手にも使い手にも、まさに〝革命〟だったのである。

ガラスの多彩な展開

 395年、帝国が東西に分裂し、さらにその80年後に西ローマ帝国が滅亡すると、ガラスづくりはほとんど途絶する。職人たちは周辺諸国に移り住み、独自のガラス工芸を育んでいく。
 一方、メソポタミアのガラス工芸は、正倉院に伝わる白琉璃碗や紺琉璃坏で私たち日本人にもなじみ深いササン・グラスを生み出す。その後に勃興したイスラム王国は、ササン朝ペルシャとローマン・グラスの伝統を受け継ぎ、耐熱ガラスやモザイクガラス、エナメル彩色、ガラスメッキなどのガラス化学を発展させた。
 五世紀末以降、長く衰退していたヨーロッパのガラス工芸は、イスラムの技術を取り入れることで復興する。13世紀、イタリアのヴェニスで開花した華麗なガラス工芸は、19世紀末にフランスで始まるアール・ヌーヴォーで技術の頂点を極めるのである。

ヴェネチアングラス「点彩花紋蓋付コブレット」 16世紀頃。宙吹き、モール装飾、エナメル彩技法 高さ32.5cm  箱根ガラスの森美術館蔵

日本への道、日本での道程

「加賀屋引札」 文政11年(1828)頃。 江戸の硝子問屋・加賀屋久兵衛(加賀久)の商品カタログ。 神戸市立博物館蔵(びいどろ史料庫コレクション)
「硝子細工図」 享保17年(1732)。 三宅也来著『萬金産業袋』より 神戸市立博物館蔵(びいどろ史料庫コレクション)

 日本のガラス史は、弥生時代の遺跡から出土する勾玉や釧(腕輪)、管玉などの装飾品から始まる。古墳時代を経て、仏教が興隆した飛鳥・奈良時代には、朝廷の保護のもと、ガラスの法具などがさかんにつくられたが、平安時代に入ると、陶器の発達や世相の変化によってガラスづくりは衰え、室町時代が終わる頃にはほぼ途絶えてしまう。ガラスづくりが再び本格化するのは、ガラスの製法が南蛮や中国から長崎に伝わった江戸時代の初めだった。風鈴やポッペン、煙管、とんぼ玉のような手頃な品が出回るようになると、「瑠璃」「琉璃」「玻璃」だったガラスの呼び名は、南蛮由来の「びいどろ」「ギヤマン」に変わっていった。
 江戸中期、長崎から大阪、京都、江戸に伝わったガラスづくりは、幕末に薩摩切子を生んだ薩摩をはじめ、萩、肥前、松前などの諸藩に広がり、近代ガラス産業の母胎となった。
 英語の「Glass」を直輸入した「ガラス」という語は、維新後、建築用板ガラスをはじめとするガラス需要の急増を受けて招かれたのが英国人技術者だったからといわれる。原料に硝石(=珪石)を使うことから「しょうし」と訓んでいた「硝子」を「ガラス」と訓むようになったのも同じ頃である。
 国を挙げて〝坂の上の雲〟をめざした明治から大正は、原料ガラスの品質や職人技術が向上し、動力としての電気が普及した時代だった。産業デザインや芸術表現の素材としての魅力を増したガラスは、昭和に入ると、河上伝次郎、岩田藤七、岡本一太郎、各務鉱三等の作家を得て、工芸として開花していくのである。

横山秀樹(よこやま・ひでき)略歴

昭和25年(1950) 3月2日、福岡県飯塚市に生まれる
昭和47年(1972) 飯塚市立幸袋小学校、同飯塚第一中学校、福岡県立嘉穂高等学校を経て、福岡大学商学部卒業。          民芸品店「備後屋」(東京)に入社
昭和48年(1973) 倉敷にて倉敷ガラス創業者・小谷眞三氏のガラスに出会う
昭和52年(1977) 小谷眞三氏に師事する
昭和56年(1981) 岡山県船穂町(現・岡山県倉敷市船穂町)に窯を築く
昭和59年(1983) 福岡県飯塚市に窯を築く
昭和63年(1987)
独立。クラフト&ギャラリー幹(倉敷市)にて初の個展を開く。
以後、現在まで、倉敷、東京、大阪、名古屋、京都、神戸、福岡、人吉、秋田、千葉、金沢、広島等、全国各地のギャラリー・百貨店・クラフトショップで個展を開催。平成6年(1994)に飯塚に本拠を移し、平成14年(2002)からは、コペンハーゲン(デンマーク)の日本国大使館を皮切りに、フルーム(イギリス)、ロンドン(イギリス)、ベルガモ(イタリア)など、海外でも個展を開催